2009年10月07日

来迎寺にある身代わりの「松王小児入海之碑」と白拍子の「妓王妓女の塔」

 神戸市兵庫区島上町にある来迎寺には「松王小児入海之碑」と「妓王妓女の塔」があります。いずれも平清盛に関係する碑と塔です。

松王小児入海之碑.JPG 
松王小児入海之碑


妓王妓女塔.JPG
妓王妓女の塔


 説明文をそのまま掲げます。

松王小児入海之碑
 二条天皇の御代、平清盛公はわが国の貿易の中心地はこの兵庫であるとの確信をもって、良港を築くため海岸線を埋め立てる工事に着手した。しかし、潮流が早く非常な難工事で、完成目前に押し流されることが二度に及んだ。時の占い師は「これは竜神の怒りである。三十人の人柱と一切経を書写した石を沈めると成就するであろう」と言上した。
 そこで清盛は生田の森に隠れ関所を構え通行の旅人を捕えさせたが、肉親の悲歎は大きかった。
 このとき、清盛の侍童で香川の城主、田井民部氏の嫡男松王十七歳が「人柱のことは罪が深い。わたしひとりを身代わりに沈めて下さい」と申し出た。
 応保元年(一一六一年)七月十三日、千僧読経のうちに松王は海底に沈み築島造営は完成した。現在の神戸港の生い立ちである。
 天皇は大いに感動されて、松王の菩提を永く弔うため当寺を建立し、念仏の道場とされた。

妓王妓女の塔
 妓王と妓女は姉妹でともに京堀川の白拍子であった。清盛の寵愛を得て優雅な日を送っていたが、清盛の心が仏御前に傾くに及び世の無常を歎き、嵯峨野に庵(いまの妓王寺)を結び仏門に入った。
 その後、平家が壇の浦で破れたため、平家ゆかりの兵庫の八棟寺(当寺の末寺)に住持して一門の菩提を弔った。

経文を記した石を沈めて島を築いた上にあるお寺の来迎寺、をご覧ください
兵庫の大恩人 平清盛公、をご覧ください
兵庫大仏のある能福寺には平清盛公墓所もあります、をご覧ください

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2009年10月03日

経文を記した石を沈めて島を築いた上にあるお寺の来迎寺

 神戸市営地下鉄海岸線の中央市場前駅から築島橋を渡った左手に来迎寺があります。「らいこうじ」と読みます。来迎寺は以前築島寺と呼ばれており、寺門にはそれを物語る築島寺の石碑があります。寺門の向かって右側には「福原西国第二十九番札所」のプレートが掲げられています。向かって左側には現在呼ばれている「来迎寺」の門灯があり、「二條天皇勅願所 平相國開基」のプレートが掲げられています。

来迎寺.JPG


 来迎寺は神戸市兵庫区島上町にあります。島上町とはよくいったもので、文字通り島の上にある町のことです。これは経文を記した石を沈めて島を築いたことに由来しています。島の名前は経が島ということになります。

 この来迎寺には「松王小児入海之碑」と「妓王妓女の塔」があります。

 「松王小児入海之碑」というのは、二條天皇の御代、平清盛公が築島をつくる難工事で、旅人たちを人柱にしようとしたところ、清盛の侍童の松王が身代わりに海底に沈められ、築島造営は完成しました。これが現在の神戸港の生い立ちとなります。二條天皇は大いに感動されて、松王の菩提を永く弔うために築島寺を建立しました。「松王小児入海之碑」とお墓があります。

 プレートにある「二條天皇勅願所 平相國開基」とはこのことを表しています。

清盛七弁天:松王丸.JPG

 
兵庫の大恩人 平清盛公、をご覧ください
兵庫大仏のある能福寺には平清盛公墓所もあります、をご覧ください

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2009年10月02日

兵庫大仏のある能福寺には平清盛公墓所もあります

 神戸市兵庫区にある大輪田橋のたもと近くに、清盛塚十三重石塔・琵琶塚・平清盛公像があります。清盛塚十三重石塔・琵琶塚・平清盛公像のある場所から、国道2号線に向けて兵庫津の道を歩いていくと兵庫大仏のある能福寺(北逆瀬川町)があります。

 能福寺には神戸事件の責任を一身に負わされ切腹した「瀧善三郎正信碑」や日本三大仏の一つの兵庫大仏もあります。そして「現在わが国最大の国際貿易港として、繁栄せる神戸港湾の基礎を造った根元としての平清盛公に対して今、報恩謝徳の意を込めて、ここに安らかにお眠りになる廟を造り奉」られている平清盛公墓所があります。

平相国廟.JPG


 養和元年(1181年)に平清盛が京都で没したおり、能福寺初代住職の円実法眼が清盛の遺言にのっとて遺骨を首にかけて、福原に持ち帰って納められたと伝えられています。しかし、遺骨の所在については諸説があって確定されてはいません。

平相国廟案内板.JPG


 能福寺にある「平清盛公墓所」の案内板には次のように記されています。

平清盛公墓所
八棟寺殿 平相國廟

平安の末期(養和元年西暦一一八一)平清盛公の薨去によっ
て能福寺の寺領内にあった太平山八棟寺に公の墓所
平相國廟が造立されたと云う。しかし平家滅亡と同時に
ことごとく破壊され、能福寺を灰燼に帰した。以後廟
は再建されることなくその存在すら忘れ去られていた。
百余年後の弘安九年(一二八六)二月、平家一門の栄枯盛衰
を哀れんだ時の執権北条貞時公は、その近くに一基の石塔
を建て、清盛公の霊を弔った、と能福寺の古文書に見える。
現在伝わる清盛塚十三重塔(県指定重文)がそれである。
今、諸々の古記録文献には「京・愛宕山にて火葬荼毘に付し
圓實法眼全骨を福原に持ち来り経ヶ島に納め・・・・」(又は)
「大輪田の法華堂に納め・・・・・」(又は)「能福寺の東北に埋骨・・・・」
云々とあるところから、遷都をも決断したほど兵庫の地を愛した
清盛公の遺言に依り全骨を福原に持ち帰ったことが史実
ならば、歴史上、真の墓は、かって平安末期、能福寺々領内
にあった平相國廟と考えられる。
奇しくも本年清盛公の八百回大遠忌を迎えるにあたり
平家物語類書にも有名な平相國廟を建立復興し、併せて
圓實法眼宝筺印塔、忠快法印塔を合祠した。
現在わが国最大の国際貿易港として、繁栄せる神戸港湾の
基礎を造った根元としての平清盛公に対して今、報恩謝徳の
意を込めて、ここに安らかにお眠りになる廟を造り奉る。
 願わくば日本の国土と民衆を兵庫県民を
    神戸市民を守護したまえ
  昭和五十五年二月 能福寺第二十四世貫主 弘善 識

右 圓實法眼宝筺印塔 鎌倉時代
   能福寺住職 名門 徳大寺家出身 清盛公剃髪出家の師匠
左 忠快法印塔(九重塔) 鎌倉時代
   清盛公の弟教盛の長子、圓實法眼の弟子にして当山住職。廟前にて有名な
   追善管茲法要を修し天台密教の学僧にして比叡山に小川流一派の灌室を興す。

兵庫の大恩人 平清盛公、をご覧ください

 能福寺に関連する神戸事件は次をご覧ください。
神戸事件(続)、をご覧ください
神戸事件、をご覧ください

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2009年10月01日

兵庫の大恩人 平清盛公

 神戸市のほぼ中央に位置する兵庫区があります。兵庫区の兵庫は兵庫県の県名であり、安政五年(1858年)の「日米修好通商条約」で開港を求められた兵庫港の兵庫でもあります。兵庫とは兵器庫のことです。

 兵庫の港(兵庫津)は大輪田の泊と呼ばれていましたが、神戸市営地下鉄海岸線の中央市場駅から新河運河沿い(キャナルプロムナード)に歩いていくと大輪田橋があります。この橋の手前に平清盛公像をはさんで、清盛塚と琵琶塚があります。

 清盛塚と呼ばれる十三重石塔は、弘安9年(1286年)の銘を持つ整った形の塔で、県指定文化財に指定されています。十三重石塔は、平清盛の遺骨が納められているという説がありましたが、大正12年(1923年)の調査で墳墓ではないことが分かりました。
清盛塚.JPG


 琵琶塚は琵琶形で平経正(平清盛の次弟・平経盛の長男で、源平合戦で神戸で戦死)の墓と伝えられる古墳があったことを示しています。清盛塚と琵琶塚はともに大正十一年頃神戸市電松原線の道路拡張工事で現在地に移されたものです。
琵琶塚.JPG


 平清盛公像は昭和43年(1968年)10月に建立されました。
平清盛公像.JPG



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