2009年11月11日

サヨナラおじさん淀川長治の若さの教科書

 独特の語り口でファンを魅了し続けた淀川長治さんは、明治42年(1909年)4月10日生まれですので、今年は生誕100年にあたります。そして平成10年(1998年)11月11日に腹部大動脈瘤破裂が原因による心不全で逝去されました。

 亡くなる前年の平成9年(1997年)12月に、淀川長治さんは日本経済新聞の「私の履歴書」を寄稿されました。寄稿の最終回は「映画は教科書」というタイトルでした。その最終回の寄稿から気に入っている文章を引用させていただきます。

 私は映画から、三つのスローガンをもらっている。「苦労こい」。苦労から逃げても人間には苦労というものが必ずあるんだから、むしろ「こい、こい」と、こちらから手を出して、その苦労を食べてしまえ。すると、もっと丈夫になるよ。そんな意味をふくんでいる。つぎは「他人歓迎」。この言葉は私の目をひらかした。アカノタニン、この言葉のいやらしさに気がついた。人間はみんな同じ。他人と思うから用心する。身内なら用心しない。用心しないが忠告はする。人を他人と思うと愛が生まれない。むしろ意味もなく敵と思ったりしてしまう。人間には他人はない。つぎは私の最も好きな言葉の「わたしは、まだかつてきらいな人に、会ったことがない」。この言葉が私を若くする。イヤな人は、やっぱりみんなにいやがられている。だが、どっかひとつくらい、いいとこがあるにちがいない。そう思って注意すると、立派なところを見つける。字が巧い。掃除がゆきとどく。なんでもいい、その人のいいところを見つけ、そしてその人を両手でなんでもいい、その人のいいところを見つけ、そしてその人を両手で迎えてやろう。いやがられている人はみんな孤独だ。そんな人ほど愛にかつえている。映画から私はこの三つのスローガンを15歳のころ、18歳のころ、19歳のころ、とそのときそれぞれに教えてもらった。これが私の若さの教科書。(日経朝刊1997.12.31(水) 私の履歴書:淀川長治(30) 映画は教科書 一番大切なことは愛 サヨナラ サヨナラ サヨナラ)

新開地 淀川長治メモリアル、をご覧ください

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2009年11月10日

新開地 淀川長治メモリアル

 独特の語り口でファンを魅了し続けた神戸出身の映画評論家・故 淀川長治さんをしのぶ「新開地 淀川長治メモリアル」が11月19日(木)・20日(金)・21日(土)に新開地のアートビレッジセンター2階のKAVCホールで開催されます。

 今年平成21年(2009年)は、淀川さんが明治42年(1909年)4月10日生まれですので、生誕100年にあたります。「新開地 淀川長治メモリアル」では、生前交友のあった大林宣彦監督をゲストにお招きして淀川長治さんについての思い出が語られます。

 淀川長治さんは現在の神戸市兵庫区で生まれ、「新開地 淀川長治メモリアル」が開催される新開地のアートビレッジセンターは神戸市兵庫区にあります。

 プログラムは次の通りです。

 11月19日(木)10:30から『モロッコ』を上映。淀川長治さんの解説が3分付きます。
          13:30から大林宣彦監督の講演、15:00から『転校生』(大林宣彦監督)が上映されます。

 11月20日(金)10:30から『心の旅路』を上映。13:30から『若草物語』を上映。
          16:00から『素晴らしき哉、人生!』を上映。淀川長治さんの解説が3分付きます。

 11月21日(土)10:30から『素晴らしき哉、人生!』を上映。淀川長治さんの解説が3分付きます。
          13:30から『心の旅路』を上映。
          16:00から『モロッコ』を上映。淀川長治さんの解説が3分付きます。

 「怖いですねえ、恐ろしいですねえ」や番組末尾の「それでは次週をご期待ください。さよなら、さよなら、さよなら...」は淀川長治さんの名台詞として語り草とされています。

 淀川長治さん解説映像付はこちらから!

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2009年07月19日

昭和20年8月20日早朝、甘粕正彦 青酸カリを仰ぐ

 『満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』講談社 太田尚樹

昭和12年(1937年)4月、甘粕正彦 協和会総務部長に就任(p.356)

 協和会は昭和8年(1933年)に創立された国策の宣伝機関で、発起人として本庄繁関東軍司令官、板垣征四郎・石原莞爾・片倉衷の関東軍参謀、オーケストラの指揮者小沢征爾の父小沢開作が名を連ねている。(p.356-357)

 戦後の中国残留孤児の問題は、満州への入植者を見捨てた関東軍に責任があるのはもちろんだが、そもそもの原因を作ったのは、石原莞爾だったのである。(p.361)

昭和13年(1938年)春、満州に来ていたキリスト教伝道者の賀川豊彦が、協和会の晩餐会に招待される(p.369)
 賀川豊彦は、若い頃大杉栄と親しかった(p.370)

昭和13年夏、満州国政府はヨーロッパへ親善使節を送る。満州国の承認をしてくれたイタリア、ドイツ、スペイン、エル・サルバドールへの答礼を兼ね、産業立国満州国を宣伝する経済ミッションである。(p.376)

甘粕正彦はこの訪欧使節団の副団長兼事務総長として、すべてを取り仕切る(p.377)
ベルリンのアメリカ大使館がビザの発給を拒否したため、エル・サルバドール行きは取り止めとなる(p.388)

昭和14年(1939年)3月22日、岸信介 満州国国務院総務庁次長に就任(p.398)
昭和14年10月、岸信介 日本へ戻る(p.421)
 岸が満州開発五ヵ年計画で育てた巨大な産業。
 第二松花江に築いた東洋一の規模を誇る豊満ダム、鴨緑江水電、露天掘りの撫順炭鉱、鞍山製鉄所、満重、昭和製鋼所、満州浅野セメント、満州住友金属、満州沖電気など、直接、間接に岸が育てた施設や工場が目白押しである。もちろん日本から移転させたものも少なくないが、満州の地を実験台にした将来の産業立国日本の礎は、しっかりと根を張り、実を結んだのである。(p.424-425)

昭和14年秋、甘粕正彦 満映理事長に就任(p.402)
 甘粕は協和会総務部長時代から引き続き、新京駅前のヤマトホテルのスイート・ルーム二〇二号室で起居していた(p.406)

昭和17年(1942年)「迎春花」と昭和18年(1943年)「私の鶯」を李香蘭主演で制作(p.413)

昭和20年8月20日早朝、甘粕正彦 青酸カリを仰ぐ。享年五十四(p.461)

甘粕が言ったと伝えられる話「日本軍にはビジネス思考がなかったですね。士官学校の教育に、経済学を取り入れるべきでした」(p.385)

甘粕曰く「責任逃れの仕方を覚える、官吏型の軍人を大勢作ってしまった士官学校の教育には、問題があります。軍事学と、命令系統の仕組みを基本にした法律の勉強ばかりさせた弊害です」(p.436)

指揮者小沢征爾の父はコピーライターだった、をご覧ください
李香蘭という女優をご存知でしょうか、をご覧ください
2つの国策映画会社、をご覧ください

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2009年06月14日

GE(ゼネラル・エレクトリック)創設者 トーマス・エジソン

 ダウ・ジョーンズ社が算出しているアメリカの代表的な株価指数のダウ工業株30種平均は、1896年5月26日から算出開始されており、算出開始時からの構成銘柄で今も残っているのは、総合電機・金融会社のGE(ゼネラル・エレクトリック)のみである。

 このGE創設者は、大発明家として有名なあのトーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison)だ。エジソンは1847年2月11日、アメリカのオハイオ州ミランで生まれた。エジソン31歳
の時、1878年10月15日にエジソン電灯会社(Edison Electric Light Company)を設立。その後もいくつもの会社を設立。エジソンは1890年までに、それまで手がけていた様々な事業をひとつにまとめ、エジソン・ゼネラル・エレクトリック・カンパニー(Edison General Electric Company)を設立した。

 一方、トムソン・ヒューストン・カンパニー(Thomson-Houston Company)は、マサチューセッツ州リンの靴製造業者だったチャールズ・A・コフィンの下で一連の合併を通じて、代表的な電気イノベーション会社に成長した。

 両社とも、規模が拡大するにつれ自社の特許と技術のみで一連の電気設備を生産することがますます難しくなり、1892年に両社が統合し、新会社「ゼネラル・エレクトリック・カンパニー(General Electric Company)」が誕生したものだ。

 エジソンは数多くの発明をするが、その中の一つに“動く写真”『ヴァィタスコープ』の発明がある。『日活四十年史』(p.34)の第一節として「日本映画の夜明け」が記述されており。映画の発明の歴史が詳述されているので引用させていただく。

 一八九五年、アメリカのトマス・エヂソンは“動く写真”の発明を完成、これに『ヴァィタスコープ』と名づけた。
 同じ年欧洲ではフランスのルイとオーギュストのリュミエール兄弟が『シネマトグラフ』を発表し『リオン・モンブレジールにおけるリュミエール工場の出口』と称する一巻ものを映写することに成功した。また同年ドイツではマックス・スタラダノウスキーが『ビオスコープ』を、イギリスでは翌一八九六年ロバート・W・ポールが『シアトログラフ』を発表した。
(中略)
 この“動く写真”−−映画が、わが国に初めて渡来したのは、発明の翌々年の明治三十年(一八九七年)であつた。しかもこの三十年の二月から三月へかけてフランスのシネマトグラフと、アメリカのヴァィタスコープの二通りの活動写真機が、都合四ヵ所に輸入されたのである。
(中略)
 もつとも、この活動写真の前に、覗いて一人ずつで見るキネトスコープというのが明治二十九年十二月神戸に輸入されたのだが、一人ずつでしか見られないキネトスコープは何かにつけ不便でもあり、興行用にも不適当な玩具のようなものであるから、大した発展はしなかつた。(引用終わり)

 エジソンと日本とは深い関係がある。それはエジソンが発明した白熱電球だ。白熱電球は、長い研究の末、フィラメント素材に京都の竹を用いたことで完成された。京都府八幡市にある男山の竹は、セルロースのフィラメントにとってかわる1894年までの約10年間、「八幡竹(はちまんだけ)」の名で、エジソン電灯会社に輸出された。「八幡竹」を使用して何百万個の馬蹄型フィラメントの白熱電球が作られ、全世界に明かりを灯し続けたのだ。

 男山にある石清水八幡宮神内には、トーマス・アルバ・エジソンの白熱電球発明から50周年を記念したエジソン記念碑がある。また、京阪電車八幡市駅前にはエジソンの胸像がある。

エジソン記念碑.jpg

エジソン胸像.jpg


ダウ工業株30種平均の構成銘柄から消えたGMとシティグループ、をご覧ください
日活のDNAをさぐる、をご覧ください

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2009年06月06日

日活のDNAをさぐる

 ロマンポルノで一世を風靡した日活のDNAについて考えてみたい。

 日活は、創立時の名称である「日本活動写真株式会社」の略称に由来する。この日本活動写真株式会社は、1912年(大正元年)9月10日、横田商会、吉沢商店、福宝堂、エム・パテー商会の4つの国産映画会社が合併して創立されたものである。

 「永田ラッパ」の愛称で知られる永田雅一率いる大映株式会社は、1942年(昭和17年)、戦時統制による企業統合で、新興キネマ、大都映画、日活の製作と興行の分離により製作部門が合併して「大日本映画製作株式会社」となった。

  1949年(昭和24年)10月1日設立の東京映画配給は、1951年(昭和26年)、太泉映画と1938年(昭和13年)設立の東横映画を吸収合併し、社名を東映と改めた。

 大映や東映は、社名に「映画」の名を背負っているが、日活は社名に「活動写真」の名を背負って出発しており、合併前の4社はいずれも社名に「活動写真」とか「映画」という名を背負ってはいない。

 合併前の4社の1つ、1903年(明治36年)6月設立の横田商會は、京都に存在した日本の映画会社で、日本最古の映画会社の1つであり、「日本映画の父」と称される牧野省三に最初に映画製作を依頼した企業である。
 『日活四十年史』の「日活映画・作品目録」には、創立した大正元年から大正七年にかけて京都作品として、牧野省三監督作品が群を抜いて掲載されている。
 なお、長門裕之、津川雅彦の兄弟は、牧野省三の孫である。

 同じく合併前の4社の1つ、1906年(明治39年)7月設立のエム・パテー商会は、かつて東京に存在した日本の映画会社である。創業者の梅屋庄吉は、香港時代に盟友となった孫文を資金的に支援していたことも知られている。

 長崎の貿易商の梅屋庄吉が、1894年(明治27年)香港で写真館「梅屋照相館」を経営していた時、初めて孫文と出会う。それは1895年(明治28年)のことである。日露戦争が起こった1904年(明治37年)事情により香港からシンガポールに逃れる。そこでフランスのパテー商会の映画プリントを入手、映写機とフィルムを手に帰国して1906年(明治38年)7月4日に「エム・パテー商会」を設立し、東京で本格的に興行を始める。

 1909年(明治42年)10月26日、韓国統監の伊藤博文がハルピンで暗殺されるという事件が起き、11月4日、日比谷公園で伊藤博文の国葬が執り行われたが、この時公園内のレストラン「松本楼」からスクープ映像を撮影したのがエム・パテー商会である。
 また、1910年(明治43年)、南極大陸探検に白瀬矗中尉が出発した翌年、エム・パテー商会のカメラマン・田泉保直が派遣され、氷山の亀裂や流出する様を撮影した。

 さて、日活の製作部門は戦時統制によって大映(大日本映画製作株式会社)に吸収され、映画製作から一旦撤退し、戦中戦後は映画興行および配給で凌ぐが、1954年(昭和29年)に活動を再開する。

 東京映画配給(東映となる)によって吸収合併された東横映画には、「日本映画の父」として知られる牧野省三の第六子(次男)であるマキノ光雄が、1946年(昭和21年)に根岸寛一の誘いにより参加する。
 それ以前の1938年(昭和13年)、日活を辞職した根岸寛一は「満洲映画協会」(満映)の理事として大陸に渡る。マキノ光雄も6月に根岸を慕って満州に渡り、満映の製作部長として多くの映画をプロデュースし、満映の基礎を築く。あの李香蘭を満映入りさせ、主演女優にするのに一役買った人物だ。
 東横映画は、大陸から引き上げた満州映画協会OBが製作スタッフとして参加しており、そのまま東映に移行することになる。

<<参考資料>>
  『日活四十年史』、『日活五十年史』、『梅屋庄吉と孫文』(海鳥社)
  
2つの国策映画会社、をご覧ください
伊藤公銅像台座はどこにある?、をご覧ください

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2009年05月23日

日活ロマンポルノの源流をさぐる

 日活と言えば「日活ロマンポルノ」というほど、日活とロマンポルノとは、切っても切っても切り離せない関係にある。

 阪神・淡路大震災前に日活の株を買ったことがある。株主優待券で映画を見るために買ったが、経営状態は芳しくなく、いつ株式蘭から消えてもおかしくなかった。

 さて、日活はどうしてロマンポルノを事業戦略の要にすることができたのか。その素地とは一体何だったのだろうか。

 5月16日は日本映画の巨匠 溝口健二監督の誕生日だったことは、5月16日のブログに書いた通りである。
 溝口健二は1920年(大正9年)に日活向島撮影所に入る。
 1923年(大正12年)2月、「愛に甦る日」で監督デビューする。
 日活向島撮影所はファンを開拓するため、同年同月に雑誌『向島』を発刊する。編集部の一員として、画家・漫画家の柳瀬正夢(まさむ)23歳が参加する。
 9月1日、関東大震災。社会運動家の大山郁夫宅で留守番をしていた柳瀬正夢は憲兵に踏み込まれ、逮捕されるが、虐殺の難を免れる。日本橋にある日活本社は灰燼に帰し、向島撮影所は閉鎖される。溝口健二監督は、日活京都の大将軍撮影所に移る。

 溝口健二監督の、主な作品を次に列挙する。
 1936年(昭和11年) 「祇園の姉妹」
 1946年(昭和21年) 「歌麿をめぐる五人の女」
 1950年(昭和25年) 「雪夫人絵図」
 1952年(昭和27年) 「西鶴一代女」ベネツィア国際映画祭でサンマルコ銀獅子賞を受賞
 1953年(昭和28年) 「雨月物語」 ベネツィア国際映画祭でサンマルコ銀獅子賞を受賞
 1956年(昭和31年) 「赤線地帯」(遺作)

 ここに見られるように、溝口健二監督は卑しい男たちのもてあそばれながら、したたかに生き抜く女を、運命にあらがいながら、転落する女を、描き続けた。生身の女をまるごととらえようとした。エロチシズム満載の作品を作り続けた。

 この系譜があるからこそ、溝口健二監督が作品を育て、作品制作に携わった生身の女にこだわる多くの人材がいたからこそ、日活はロマンポルノを事業戦略の要にすることができた、のではないだろうか。単に制作コストが安かったからたまたまそうなったのではなく、必然だったのだ。

 1956年(昭和31年)8月24日、白血病のため死去、享年58歳。今、京都市左京区岡崎にある満願寺に眠る。

<<参考資料>>
 日本経済新聞 平成21年2月8日 溝口健二の神話(2)
 日本経済新聞 平成21年2月15日 溝口健二の神話(3)
 日本経済新聞 平成21年2月22日 溝口健二の神話(4)

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2009年05月21日

2つの国策映画会社

 女優李香蘭が所属する満映とは、一体どういう組織だったのか。満映とは、満洲映画協会の略称で、満州国の国策映画会社である。満映設立以前には、満鉄映画部が満州国での映画制作などを行っていた。昭和12年に満州国と満鉄が出資して満映は設立された。

 満映は映画の制作だけでなく、配給・映写業務もおこない各地で映画館の設立、巡回映写なども行った。配給エリアは満洲国内及び日本租界である。

 昭和14年11月、満映の映画制作実績が上がらなかったため、満州国国務院は甘粕正彦を2代目理事長に据え満映の改革に送り出されたとされる。

 昭和20年日本敗戦により、満州国も崩壊する。甘粕理事長は玉砕ではなく降伏を選択し、列車を確保し日本人社員と家族を朝鮮経由で日本に帰国させるよう命じた。また満映の全預金を引き出し日本人職員と中国人職員に退職金を支払った。甘粕自身は8月20日に青酸カリで服毒自殺する。

 一方、甘粕正彦が満映理事長に就任した昭和12年、上海に「中華電影公司」が日中折半出資で設立された。「李香蘭という女優をご存知でしょうか」で引用した同じ新聞記事から再び引用する。

 「甘粕さんが満映理事長に就任したその年、上海に「中華電影公司」が日中折半出資で設立された。軍が満州以外の占領地対策として作った映画会社である。実質的な責任者には、国内で東和商事を興し外国映画の輸入と日本映画の輸出を手がけてきた川喜多長政さんが就任した。
 川喜多さんは就任にあたって「中国人の手で中国人のためになる中国の映画を作る」という条件を軍にのませた。」

 川喜多長政の父は川喜多大治郎砲兵大尉で、なぜか陸軍をやめ、明治41年北京で私服の日本軍憲兵に殺された。軍事機密を中国側に流しているのではないか、との疑惑を持たれたために消されてしまったのかも知れないが、真相は分かりません。

 川喜多長政については、以前「伊丹十三の最初の結婚相手が誰かご存知ですか?」にも書いたが、大正10年北京大学に学んだ後ドイツに留学する。昭和3年、東洋と西洋の和合を願って外国映画輸入配給業の会社「東和商事」を設立した。

 昭和12年3月、陸軍は川喜多長政に日本軍支配地域の映画配給会社の日本側代表を依頼する。そして、同年6月27日に、中華電影股■有限公司(中華電影)が日中合弁で設立され、専務董事となり本社を上海租界に置く。昭和16年12月8日、上海の租界全域を日本軍が占領。敗戦後は上海で残務整理をしていたが、李香蘭(山口淑子)が漢奸とされ処刑されると聞くと、この救出に尽力する。

 昭和21年(1946年)4月1日、川喜多長政と山口淑子は「雲仙丸」で博多に着く。山口淑子は鎌倉の川喜多さんのところに身を寄せることになる。

 新京(長春)にテロリストと言われた元憲兵大尉率いる満映があり、憲兵に父親を殺された映画人が率いる中華電影が上海にできた。李香蘭は2つの国策映画会社で、満映女優でありながら上海で活動したのだ。

<注> ■には、にんべん+分の字を入れてください
<<参考資料>> 平成16年8月13日(金) 日本経済新聞朝刊 私の履歴書:山口淑子
         平成16年8月24日(火) 日本経済新聞朝刊 私の履歴書:山口淑子
         Wikipedia 満映
         Wikipedia 川喜多長政
    
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2009年05月20日

李香蘭という女優をご存知でしょうか

 李香蘭という女優をご存知でしょうか。 

 小学校入学前に、今はもうこの世にいない父が話していたことがある。別に幼い私に話したわけではない。ただ何とはなしに耳に入ってきた言葉がある。それは、「李香蘭は本当は中国人ではない。日本人だ。山口淑子が本当の名前だ」という言葉だった。どういう意味かは全く分からなかったが、妙にいつまでも心に残った。

 山口淑子さんは昭和49年に、時の総理・田中角栄の要請で自由民主党から参議院議員通常選挙に全国区から立候補し初当選し、その後も何回か再選された。
 その山口淑子さんが、平成16年8月に日本経済新聞で「私の履歴書」を執筆することになった。その12回目の連載を見てびっくりしたことがある。それは「昭和14年(1939年)11月、甘粕正彦さんが満映の二代目理事長になった。」と書かれていたからだ。甘粕正彦とは、あの甘粕正彦のことか、本当か。その後にはこう書かれていた、「元憲兵大尉。関東大震災の混乱の中で、無政府主義者の大杉栄、内縁の妻伊藤野枝、大杉の甥橘宗一少年を虐殺した人物として有名だった。軍法会議で懲役十年の判決を受けながら2年10ヵ月服役しただけで出獄した。」

 当時の新聞(大正12年9月25日 神戸又新日報)には、「甘粕大尉は本月十六日夜大杉栄外二名を某所に同行し之を死に致したり」とある。大正12年12月9日の神戸又新日報では「甘粕大尉事件の判決 八日午前第一師団軍法会議に於て大杉一族殺し五憲兵に判決言渡を 甘粕十年(求刑懲役十五年)、森三年、他の三憲兵に対し命令関係から無罪を」とある。

 さらに山口淑子さんは続ける、「のみならず軍籍を剥奪されたというのに軍の資金でフランスを旅するなど、事件の真実は闇に閉ざされていた。
 清朝の廃帝、溥儀を天津から満州へひそかに護送し、情報・治安活動などを通じて満州国建国の功労者となる。満州国の唯一の政党ともいえる協和会総務部長に就任したころには「満州の甘粕」の異名があった。」 

 あの甘粕は生き延びて満州で暗躍していたのだ。こんな形で甘粕の名を眼にするとは思わなかった。

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2009年05月17日

伊丹十三の最初の結婚相手が誰かご存知ですか?

 5月15日は、俳優・映画監督の伊丹十三の誕生日だった。

 伊丹十三のキューピッド役となったのは、野上照代(のがみ てるよ)という女性だ。野上照代は、元黒澤組記録係で、「羅生門」で記録係を務めることになってから以後、黒澤明監督のほぼ全作品についた最古参スタッフの方だ。

 黒澤明に多くの映画人を紹介したのは、平成5年に亡くなったフランス映画社の川喜多和子である。川喜多和子は、日本映画界の巨人である川喜多長政と川喜多かしこの娘(長女)である。

 和子の父、長政は、大正10年北京大学に学んだ後ドイツに留学する。昭和3年、東洋と西洋の和合を願って外国映画輸入配給業の会社「東和商事」を設立し、その後、同社に入社したタイピスト兼社長秘書の竹内かしこと結婚し、和子を授かる(昭和15年生まれ)。夫婦で力を合わせて数々の名作を輸入・配給した。作品としては、「自由を我等に」「巴里祭」「会議は踊る」「女だけの都」など、映画史上不朽の名作が並ぶ。映画の輸入ばかりでなく、昭和12年にはドイツとの初めての合作映画「新しき土」を制作する。昭和26年、ベネチア映画祭に、黒澤明監督の「羅生門」を携えて参加し、グランプリを獲得する。昭和56年5月24日、78歳で逝去される。

 この東和商事は、現在は東宝東和(昭和50年改称)となっている。歴代の社長には、創業者の川喜多長政と2代目社長の白洲春正、そして現在4代目の松岡宏泰が就任している。
 2代目社長の白洲春正は、元首相吉田茂の側近白洲次郎と白洲正子(旧姓樺山)の長男である。
 4代目社長の松岡宏泰は、松岡功東宝会長の長男で、元テニスプレーヤーの松岡修造の実兄である。

 川喜多和子は、15才でイギリスに留学。初めはバレエの勉強をするつもりだったが、次第にヨーロッパ各国の文化に興味を持ち、イギリス、フランス、イタリア、ドイツとヨーロッパ四カ国でそれぞれの国の文学,文化史を学んだ。昭和32年帰国後、黒澤組で勉強することになる。この時、黒澤明監督から和子を預かったのが野上照代だ。昭和34年、和子は黒澤明監督の「悪い奴ほど良く眠る」の助監督を勤めた。

 ところで、先ほど和子の父長政が、昭和12年にドイツとの合作映画「新しき土」を制作した、と書いたが、監督は伊丹万作だった。伊丹十三は、伊丹万作の息子だった。伊丹十三は、実は本名は池内岳彦(いけうち たけひこ)で、戸籍名は池内義弘なのだ。野上照代は戦前から伊丹万作と文通しており、息子の岳彦の面倒も見ていた。

 野上照代が川喜多和子に池内岳彦を紹介したが、後に邪魔者となり、キューピッド役になったのだ。
昭和35年、二人は結婚する。
(敬称略)

 **参考資料 平成18年11月20日(月) 日本経済新聞夕刊 人間発見 元黒澤組記録係 野上照代(のがみ・てるよ)さん

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2009年05月16日

今日5月16日は、映画監督 溝口健二の誕生日

 今日5月16日は、映画監督の溝口健二の誕生日である。昨日5月15日は、俳優・映画監督の伊丹十三の誕生日だったので、2日続けて映画監督の話となる。

 日本映画の巨匠、溝口健二監督を初めて知ったのは、大正12年(1923年)のあるコトについて調べている時、次の新聞記事を目にしたからだ。それは、「日本映画の巨匠、溝口健二監督は1923年に25歳で日活向島撮影所の監督に昇進した。溝口はその年に11本の映画を撮ったが、これらはすべてフィルムも台本も現存しない。どんな映画であったのか、今となっては当時の新聞や雑誌の記事を頼りに推測するほかない。」(日本経済新聞 平成4年1月12日(日))

 この記事を読んで思ったことは、フィルムは満州には間違いなくあっただろう、ということだった。
敗戦により、フィルムはどうなったのかは分からないが、日本へ持ち帰られたことを願うのみである。

 1898年(明治31年)5月16日生まれの溝口健二は、大正7年(1918年)に神戸又新日報社に広告図案係として就職したが僅か1年で退職した。
 神戸の新聞「神戸又新日報」は、明治17年4月17日創刊、その後資金面や反川崎財閥色等の問題から、昭和14年6月30日、第19132号をもって廃刊となった。(『神戸市史』第3集 新聞)

 大正12年2月、先輩監督の若山治のオリジナル脚本による『愛に甦る日』で24歳にして映画監督デビューを果たし、先ほどの新聞記事にあるように、大正12年に25歳で日活向島撮影所の監督に昇進した。溝口はその年に11本の映画を撮った。

 昭和27年、ベネチア国際映画祭に出品された「西鶴一代女」で、溝口健二監督は日本人の最優秀監督賞を受賞する。
 その51年後の平成15年、第60回ベネチア国際映画祭で、コンペティション部門に出品した「座頭市」の北野武監督に最優秀監督賞(銀獅子賞)が授与された。

 昭和31年売春防止法成立前の吉原の女たちを描いた「赤線地帯」が遺作となった。
 溝口健二は生涯で90本の映画を撮ったが、うち34本しか現存していないそうである。

posted by booknikoniko at 18:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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