2010年10月20日

移情閣のそばに移築・復元された旧武藤山治邸

 明石海峡大橋や淡路島、播磨の国の東側を望む気候穏やかな高台に旧武藤山治邸がありました。旧武藤山治邸は、明治40年(1907年)に神戸市の舞子浜に建てられた、木造2階建のコロニアル様式の洋風建築だったそうです。同じ舞子浜に建つ移情閣とともに地域のランドマークとして親しまれていたそうです。

 昭和9年(1934年)に武藤山治は没しますが、昭和12年(1937年)に武藤家から鐘紡(鐘淵紡績)に寄贈され、社員の厚生施設「鐘紡舞子倶楽部」として利用されていました。ところが、明石海峡大橋建設に伴う国道2号線の拡幅工事のために、平成7年(1995年)に狩口台7丁目(神戸市垂水区)に移築されました。

 平成19年(2007年)3月に、兵庫県は建物とともに家具・絵画及び蔵書等調度品についてカネボウから寄贈を受けます。そして、平成19年(2007年)12月27日から約4億5千万円をかけて舞子公園内に移築・復元工事が行われ、いよいよ平成22年(2010年)11月7日から一般公開されることになりました。

 一般公開の初日には移築を記念する式典が開催され、午後1時から大人100円で有料公開されるとのことです。
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2010年09月06日

大正十三年九月六日、戦艦安芸海底に没す

 阪神電車鳴尾駅西側踏切を43号線側から渡ると、西手に木立が見える。鎮守の森があることが分かる。そこには鳴尾・八幡神社がある。本殿へと続く長い石畳を歩いて行くと、左手に慰霊塔がある。慰霊塔すぐそばに「慰霊塔由来」の説明板がある。

2010_0905_鳴尾・八幡神社慰霊塔.JPG

 その説明板には次のように書かれてある(改行せずに示す)。


慰霊塔由来

 日清・日露及び太平洋戦争における鳴尾村関係・戦没者、五百有余柱の英霊を此処に祀る。
 尚、塔の尖塔部の砲身は明治四十四年広島呉工廠において・カーチス式タービンを最初に搭載した戦艦安芸の砲身です。
 戦艦安芸は全長百四十・ニメートルに、出力二万五千馬力、速力二十ノット、主砲は三十センチ砲四門、魚雷発射管五門、片舷三十センチ砲四門、二十五センチ砲六門を装備していた。
 戦艦安芸は大正十二年ワシントン軍縮条約の結果、標的艦となり、砲塔等撤去後翌、十三年九月六日、戦艦長門及び陸奥の研究射撃により、野島崎沖合において海底に没す。射撃時間十七分。

2010_0905_鳴尾・八幡神社慰霊塔由来.JPG 


 砲身を持つ慰霊塔は初めて目にした。こんなところによく残っていたものだと驚かざるをえない。日清・日露戦争の英霊をお祀りするために砲身が使われたのなら分かるが、太平洋戦争の英霊もお祀りするのにも砲身が使われたのに妙な違和感を感じるからだ。
 妙な違和感とは、戦艦安芸から撤去された砲身がよく残っていたということにある。金属類等回収令で砲身が供出されてもおかしくないし、他の砲身は一体どうなってしまったのかが気になるからだ。この砲身は一体どういういきさつで大事に隠し持つことができたのだろうか。

 戦艦安芸が軍縮の標的とされたのは最新のカーチス式タービンを最初に搭載したことにより、それまでの戦艦の保有比率を保てなくなるために欧米諸国が槍玉にあげたものだろうか。

 大正十三年九月六日、戦艦安芸は野島崎沖合に海底に没した。
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2010年08月11日

神戸の坂本竜馬 旧神戸海軍操練所跡

 神戸のビジネス街の中心地の京町筋を、山側から浜側の海岸通に突き抜けると阪神高速道路下に京橋がある。その京橋の東側手前に錨の形をした史蹟旧海軍操練所跡がある。咸臨丸による最初の日本人による太平洋横断を務めた艦長が勝海舟である。この渡米経験から海軍の重要性を徳川幕府に力説してできたのが、神戸海軍操練所だ。勝海舟は全国から俊英を集め、日本海軍の基礎を作ったが、その中に坂本竜馬、後に兵庫県知事や外務大臣となる陸奥宗光らがいた。

2010_0811_旧海軍操練所跡.JPG


 錨の前には石の分厚い本が開かれている。そこには「神戸海軍操練所跡由来」が記されている。それをそのまま記載する。


神戸海軍操練所跡由来

 万延元年(一八六〇年)一月、幕府は遣米修好使節団を公
式に派遣した。その際、勝海舟は、咸臨丸(三〇〇トン)の
艦長として、万里の波浪とたたかいながら、一行の護衛と海
洋技術修得の大任を果たしたのである。これ、日本人による
最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮
挙であった。
 文久三年(一八六三年)四月、攘夷の世論ようやく急を告
げ、徳川家茂が摂海防備のため阪神海岸を巡視した。当時、
海舟は、軍艦奉行並の職にあって、これに随行し、神戸港が
天然の良港であり、国防の要港であることを力説した。かく
て、ここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。
 この神戸海軍操練所は、兵学校、機関学校、海軍工廠を総
合した観があり、大規模な組織であった。勝海舟はここに天
下の人材を集め、日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつ
くろうとした。その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを
数え、坂本竜馬、陸奥宗光、伊東祐亨など、幾多有為の人材
を輩出したのである。
 元治元年(一八六四年)、海舟は、禁門の変に操練生の一
部が反幕軍として参加したため、激従養成の嫌疑を被って解
職され、操練所もまた翌慶応元年(一八六五年)三月、つい
に閉鎖されるの止むなきに至ったのである。
 当時は、この「記念の錨」から東へ長くひろがり、南は京
橋詰から税関本庁舎を望むあたりの、長方形の入堀約一万坪
の一帯が海軍操練所であった。惜しくも現在では阪神高速道
路の下に埋めたてられて、当時の盛観をしのぶに由もない。
今はただ、遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の
碑文を仰ぐことのできるのがせめてもの救いである。
 ここに当時を偲び郷土を愛する人びとに、この記念の碑を
捧げる。
 昭和四十三年十月建立
        兵 庫 県 知 事 金井元彦
        神 戸 市 長   原口忠次郎
        神戸商工会議所会頭 浅田長平
                寄贈 洲崎喜夫
                   小野米吉

 9月18日と19日の両日にわたって開催される第2回みなと町神戸ツーデーマーチでは、この旧神戸海軍操練所跡の碑が、竜馬ブームに乗った形でコースに組み込まれている。18日の東5kmコースには残念ながら組み込まれていないが、両日とも参加されるウォーカーの皆さんは2回、目にすることになる。

 第2回みなと町神戸ツーデーマーチに参加されるウォーカーの皆さんの神戸市内の宿泊先はここをクリックしてくださいね!
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2010年08月06日

北海道の名付け親 松浦武四郎の名前を鉄道史に見つける

 北海道の鉄道建設の歴史を知るための資料の一つとして、『北海道炭礦鉄道略記』がある。これは北海道庁鉄道部の手によってつくられたものらしい。この資料には、幌内鉄道から北海道炭礦鉄道に至る鉄道の略史が記述されているが、それ以外にも夕張炭礦をはじめとして各炭礦の沿革も記述されている。

 炭礦の沿革の一つに空知炭礦の記述がある。この記述を読んでいくと、北海道の名付け親 松浦武四郎の名前を見つけることができた。

資料を引用すると、
「○附記
  空知炭山
空知炭山ハ石狩国空知郡ニアリ明治二十三年八月奈江村ヲ置キ三十年七月歌志内村ヲ置クニ辺テ二村ニ分属セリ一ニ歌志内炭山ト曰フ安政年間松浦武四郎空知川ヲ遡リ石炭ノ露出スルヲ見ルト之ヲ日誌ニ記セリ明治六年開拓中判官榎本武揚亦同川ヲ遡リ其沿岸ニ露出セル石炭ヲ採リテ之ヲ分析シ翌年米国人地質学士来曼之ヲ検シ見取図ヲ製ス北海道庁開庁ノ初メ空知煤田調査ノ業ヲ起シ精密ノ調査ヲ遂ケタリ(以下略)」とある。
  ((注)資料にはページ数が付されていませんので、ページ数を記していません)

 米国人地質学士ライマンを「来曼」と当て字をしているのは面白いし、北海道鉱山検査巡回を命じられた榎本武揚の名があるのも面白い。短くても興味のつきない資料だ。


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2010年07月29日

第2回 みなと町神戸ツーデーマーチ

 今年もまた去年に続いて「第2回 みなと町神戸ツーデーマーチ」が開催されます。

 このみなと町ツーデーマーチは、安政五年(1858年)に締結された「日米修好通商条約」に基いて、安政六年(1859年)、神奈川(横浜)、長崎、箱館(函館)の3つの港が開港されましたが、この「日米修好通商条約」に関連する7つの港が、日本開国セブンハーバーズリーグを構成して、開催されるウォークです。7つの港とは、函館港、新潟港、横浜港、下田港、神戸港、下関港、長崎港です。

 神戸港のある神戸では、今年も神戸ウオーキング協会が中心となって「第2回 みなと町神戸ツーデーマーチ」を開催します。

 開催日は、平成22年(2010年)9月18日(土)・19日(日)の2日間です。       
    1日目が、9月18日(土) 東コース、30km, 20km, 10km, 5km の4コース
    2日目が 9月19日(日) 西コース、30km, 20km, 10km, 5km の4コース、です。
 主会場は、2日間ともメリケンパークです。去年の主会場と同じです。

 参加費は、事前申込みが一般 1,500 円 中高生   800円(小学生以下は無料)
      当日申込みが一般 2,000 円 中高生 1,000円(小学生以下は無料)、で
どなたでも参加できます。

 事前の申込みの期限は、9月6日(月)(当日消印有効)で、8月20日(金)受付分までですと、大会誌に氏名が記載されます。

 お問合せ先は、神戸ウオーキング協会内「みなと町神戸ツーデーマーチ実行委員会」で、
 TEL・ FAX  (078)251−0114です。

 1日目は、北野異人館を中心としたコースで、神戸海軍操練所跡碑を楽しめるコースもあります。
 2日目は、新長田の町に出現した鉄人28号を楽しめるコースもあります。 

 山から海までの距離が非常に短い神戸の街の風情を楽しみながら是非ウオーキングしましょう!


 宿泊先を希望される方は、


神戸クアハウス
(TEL:078−222−3755)がお薦めです。
 ゼッケン提示で入浴料やカプセル一泊料金の割引や女性専用のカプセルがあります。重曹とホウ酸の二種類の天然療養温泉大浴場とサウナをお楽しみいただけます。。

 神戸の中心地三宮にあるリーズナブルなビジネスホテルの


新神戸サンホテル
(TEL:078−272−1080)では、神戸コムシノワのパンの朝食がお楽しみいただけるので、お薦めします。
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2010年07月23日

六甲山最高峰

 神戸電鉄の有馬温泉駅から魚屋道を通って、六甲山最高峰931mまで久しぶりに歩いた。木陰の中を歩くのでそう暑くはないだろうと思いきや、汗をかくこと、汗をかくこと。魚屋道は道幅もある昔の商業路なので歩きやすい道ではある。

 六甲山最高峰登り口近くに一軒茶屋がありその前に薄紫色のあじさいの花が咲いている。その姿にホッとする。

 有馬温泉駅で帰りの電車を待つ間に「山へ、温泉へ登山電車ででかけよう!」というチラシを見つける。神戸電鉄の電車賃は高い、とよく言われる。阪神や阪急と比較して走行距離に対して高いことは間違いない。神戸電鉄の運賃がなぜ高いのかは、登山電車の扱いをうけており、郊外電車と登山電車とでは料金体系が違っているからだ。

 この「山へ、温泉へ登山電車ででかけよう!」というチラシは、全国登山鉄道‰(パーミル)会の6社が登山電車の魅力をPRするためのもので、6社とは、神戸電鉄の他に、箱根登山電車、叡山電車、富士急行、大井川鉄道、南海電車である。

 神戸電鉄の湊川〜有馬温泉間の標高差は357mで、箱根駅伝で有名な箱根登山電車の小田原〜強羅間の標高差は527mで、6社の中では最も標高差のある登山電車だ。

 神戸電鉄の最急勾配は50パーミルで、50パーミルの昇り勾配標は、水平に1000m進む間に50m昇る勾配を表している。6社の中では大井川鉄道の最急勾配は90パーミルで、もっとも勾配のきつい登山電車となっている。

2010_0722_六甲山最高峰.JPG

2010_0722_六甲山あじさい.JPG
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2010年06月21日

神戸市役所は明治22年6月21日に開庁しました

 現在の市町村の元になっている市町村制ですが、これは明治21年(1888年)4月25日に公布された法律「市制町村制」によるものです。この法律に基づき、明治22年(1889年)4月1日に、兵庫県では市制町村制を施行しました。この日に、神戸市の前身である神戸区に葺合村と荒田村とを合併して誕生したのが神戸市です。今年で神戸市制121周年になります。

 神戸市役所は明治22年(1889年)6月21日に開庁しました。
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2010年06月04日

フラワーロードと花道

 日本経済新聞の先月の「私の履歴書」は、演劇研究家の河竹登志夫さんがお書きになっていました。5月25日(火)は24回目でタイトルは「歌舞伎教室」でした。

 その中から引用させていただくと、「(子供歌舞伎教室では、)芝居の前の10分かそこらの短い時間で、何も知らない1500人もの子供に、歌舞伎についてわかり易く話す−−これは中学教師の経験のある私にも非常に難しかった。たとえば花道。「みなさん、これ、英語で何というか知ってますか」と問いかける。英語を習いはじめたばかりの生徒たちは一瞬、シーン。やや間をおいて「フラワー・ロード」というと、ワーッと喜ぶ・・・・。そんなことから始めなければならなかった。」

 花道とは、歌舞伎が行われる劇場で、舞台から客席を縦断するように張り出した部分のことを言います。花道は花道で、フラワーロードはフラワーロードで、花道を英語でフラワーロードというとは考えてもみませんでした。

 神戸には、フラワーロードがあります。フラワーロードの沿線には神戸市役所があります。
 フラワーロードは兵庫(後に神戸となる)開港後、外国人居留地ができてしばらくの間は生田川でした。度重なる生田川の氾濫により、外国人居留地に住む外国人からクレームとなり、急遽生田川の付け替え工事が行われました。付け替え後の生田川は、新生田川と呼ばれるようになり、旧生田川は埋め立てられ道路となりました。

 埋め立てられた道路の中央分離帯に花が植えられるようになったことや、日本初の花時計が誕生したことからこの道は「フラワーロード」と命名されることになりました。現在は中央区となっていますが、フラワーロード以西が生田区で、以東が葺合区でしたが、昭和55年(1980年)に統合され、中央区となりました。

 花道と言えば、桜木花道でしょう。桜木 花道は、井上雄彦の漫画作品とそれを原作とするアニメ『SLAM DUNK(スラムダンク)』に登場する湘北高等学校1年7組の高校生です。久しぶりの『SLAM DUNK』は大いに気分を高揚させてくれました。

2010_0526_フラワーロード.JPG
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2010年04月05日

御影の綱敷天満神社の大絵馬

 西国街道のバイパスの徳川道の住吉側の起点の説明板を見に行く途中、御影の天神さまの御影綱敷天満神社に立ち寄ることにしました。この神社の参道からは、「日本で最初の鉄道トンネル 旧石屋川隧道跡」の石碑を見ることができます。

 参道の鳥居の横には、綱敷天満宮の神額が保存されています。この神額は、平成7年1月17日の阪神・淡路大震災で倒壊した大鳥居の神額で、ご祭神の菅原道真大神の子孫の方が謹書されたものです。

綱敷天満神社の絵馬.JPG


 境内には、今年の干支の大絵馬があります。虎というよりは猫に見えてしかたないのですが、力強さにかけた何とも弱弱しい虎です。騎虎の勢いなど全く感じられません。

 境内には以前紹介した「牛と天神さま」の説明文があるのですが、前回と異なり、一部削除されている部分があります。削除後の説明文をそのまま掲載します。

牛と天神さま

全国各地の天神さまにお参りになつても必ずと言つて、
良い程境内に牛の像をお見受けになりますが、天神さまと言
えば梅と牛、これは切つても切れない関係にあります。
 それは菅原道真公(菅公)の生れ年が承知十二年(八四五)
六月二十五日の丑年の丑の日で十五才の元服式の日が貞観元年
(八五九)二月十一日の丑の日であつたと言われます。また菅公が
九州に左遷のみぎり、京都を旅立つ時に、藤原時平が笠原宿禰
に命じ菅公暗殺をたくらんだ時に菅公が以前、北山で供養した
白牛が飛び来たつて、宿禰を角殺して危難を救つたと言われ
ております。
「菅原聖廟伝」には、菅公の御遺言として、「御かばねをば人に引
かせず、牛の行く所にとどめよ。」とありますが、この地が大宰
府天満宮の発祥の地であり、ここにも菅公と牛との目に見え
ない御神縁を感じるのであります。
天満神社境内の牛を「撫で牛」と言いますのは、病気で悪い所
痛む所があると全快を祈つて牛のその箇所を撫でて祈願
するからであります。また、子供にクサ(瘡)ができると、牛に
祈るのは、牛はクサを食べてくれると言うことでありましよう。
こうして「牛」は天満宮信仰にとつては無くてはならないもの
となり、「神のみつかはしめ」として精神的なつながりをもつ
ております。

牛と天神さま.JPG


削除されたのは、「そして九州大宰府の配所・榎寺での薨去の日
もまた延喜三年(九〇三)二月二十五日、この年も丑年にあたるの
であります。」の箇所です。


どうぞ学問の神様にお参りください。
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2010年03月28日

日本で最初の鉄道トンネルの石屋川隧道工事

 JR西日本 神戸支社では、平成17年3月に『神戸駅130年史 〜神戸の鉄道 誕生から現在まで〜』を発行しています。

 神戸・大阪間(32.7km)を開業したのは、明治7年(1874年)5月11日ですが、工事の始まりは明治3年(1870年)10月24日です。実は全線工事に先駆けて、明治3年(1870年)10月24日に始まったのが、石屋川隧道工事です。

 神戸・大阪間の隧道は石屋川、住吉川、芦屋川の3カ所ありますが、線路が川底を隧道により通過しています。

 『神戸駅130年史 〜神戸の鉄道 誕生から現在まで〜』の「石屋川隧道工事」には次のように書かれています。

 石屋川隧道工事が、明治3年(1870)10月24日、全線工事に先駆けてはじまった。このトンネルは、石屋川の下を横断する延長61mの短い隧道であったが、工事はイギリス人技術者らの指導のもと進められ、川の流れを木製の仮水路でいったん付け替え、河床を切り開いて掘り下げ、単線円形断面としてアーチ環とインバクートアーチをレンガで畳築したのと埋め戻す工法であった。高さ4m、幅4.3mで、覆工にはレンガが用いられ、工事開始から約9ヵ月後の4年7月に完成した。
 なお、わが国最初の鉄道隧道としての旧石屋川隧道は、明治27年の複線化工事の際に、側壁を整層切石積に置き替えた。その後、複々線化工事により、大正8年(1919)に解体され跨線水路橋となった。さらに線路の高架化に伴い、上り線は昭和46年(1971)8月、下り線は50年7月にそれぞれ橋梁に改築され、今日では石碑が残されている。(p.13-14)

旧石屋川トンネル跡.JPG
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2010年03月17日

大輪田橋のたもとにある戦災殉難者慰霊碑

 清盛塚・十三重の塔と琵琶塚から中央市場に向かって新川運河の中央を跨いでいる3連アーチ石造の橋は、大正13年(1924年)に建設された名橋の大輪田橋です。この大輪田橋東詰北側には親柱があり、その右には震災で倒壊した柱が、大輪田橋戦災・震災復旧モニュメントとして横たわっています。

 ちょうどこの大輪田橋戦災・震災復旧モニュメントのある橋のたもとにあるのが、戦災殉難者慰霊碑です。戦災殉難者慰霊碑の入口は中央市場に向かって少し歩いたところにあります。その入口には「戦災殉難者慰霊碑来歴」があります。その来歴には次のように書かれています。

          戦災殉難者慰霊碑来歴
   大東亜戦争末期昭和二十年三月十七日アメリカ合衆国B29
   爆撃機の神戸大空襲に遭った此の地、大輪田橋下暗渠内で
   多数の方々が被爆死されました。
   あの悲惨な状態、猛火のもと恐怖と悔しさの地獄図は日本人
   として未来永劫、忘れる事はないでしょう。生き残った町住者
   が、尊い生命を失われた人々に深く心からご冥福をお祈り
   すると共にこの悲運を永く後世に伝える為、出在家町協議会
   の手で此の地に慰霊碑を建立しました。協議会は恒例行事
   として、ご命日には町住者による慰霊祭を施行しております。
   殉難死された方々の安らけき事を只管祈り続けん。
     昭和二十二年九月      出在家町協議会  敬白

戦災殉難者慰霊碑.JPG

戦災殉難者慰霊碑来歴.JPG


 大輪田橋は神戸市兵庫区にありますが、昭和20年3月17日、神戸市湊区(現兵庫区)に住んでいた母は、防空壕に入れなかったために、神戸大空襲で焼け出されたものの、幸い無事でした。昭和20年6月5日の神戸大空襲で、今度は住吉村(現神戸市東灘区)で二度目の焼け出しに遭うことになります。

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2010年03月16日

大輪田橋東詰北側にある大輪田橋戦災・震災復旧モニュメント

  清盛塚・十三重の塔と琵琶塚から兵庫運河を跨ぐ清盛橋を渡ると、薬仙寺があります。

 薬仙寺境内には、戦災・震災モニュメントがあります。そのモニュメントは平成7年(1995年)1月17日の阪神・淡路大震災で大被害を受けた大輪田橋の崩落した石材の一部を使って作られています。この大輪田橋は、清盛塚・十三重の塔と琵琶塚から中央市場に向かって新川運河の中央を跨いでいる3連アーチ石造の橋で、大正13年(1924年)に建設され、大輪田泊に因んで名づけられた名橋です。

大輪田橋.JPG


 大輪田橋東詰北側には親柱があり、その右には震災で倒壊した柱が大輪田橋戦災・震災復旧モニュメントとして横たわっています。そのモニュメントの説明文には次のように書かれています。

           大輪田橋戦災・震災復旧モニュメント

    平清盛公ゆかりの地名にちなむこの大輪田橋は、1924年の竣工以来、
   二度の大きな災害に遭っています。1945年3月17日の神戸大空襲では、
   水を求め、この橋に避難した多数の市民が、炎にまかれ犠牲になりました。
   橋にはその時の炎で黒く焼け焦げた跡が、今も残っています。そして50年
   後の1995年1月17日の阪神・淡路大震災により、この橋自体の親柱が
   崩れ落ちる被害を受けました。
    ここに、戦災と震災を経験した「生き証人」でもある親柱をモニュメント
   として再構成し、その時節の冬の星座をかたどった照明によって、私たちの
   記憶を永くとどめるとともに、鎮魂の意を示すものです。
                             1998年10月
                              神 戸 市

大輪田橋モニュメント.JPG
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2010年03月15日

薬仙寺の戦災・震災モニュメントと神戸大空襲犠牲者慰霊碑

 清盛塚・十三重の塔と琵琶塚から兵庫運河を跨ぐ清盛橋を渡ると、薬仙寺があります。

 薬仙寺の地は、奈良時代行基菩薩が開いたと伝えられる大輪田の湊に接し、平安時代にはたびたび千僧供養が行われた所です。承元元年(1207年)法然上人が讃岐に下るとき、この薬仙寺へ立ち寄り大衆を教化され、文久元年(1861年)には英国初代公使オールコックの一行が兵庫開港予定地を視察するため宿泊した由緒ある寺院です。(薬仙寺にある神戸市教育委員会説明板による)

 この薬仙寺境内には、戦災・震災モニュメント神戸大空襲犠牲者慰霊碑があります。戦災・震災モニュメントの説明板には次のように書かれています。

   大輪田橋は神戸の誇る名橋として全国的に
   知られている。1945年(昭和20年)
   3月17日の大空襲では、この橋近くに避難
   した500名を越すともいわれる市民が犠牲
   となり、橋も炎で真黒に焼け焦げた。それから
   丁度半世紀、1995年(平成7年)1月17日
   の大震災でも大被害をうけ、親柱などの石材が
   大崩落した。修復にあたり旧石材破棄するに
   忍びず、ここにその一部をモニュメントと
   して保存した。大空襲、大震災の惨禍を後世に
   伝え、また犠牲者に鎮魂のまことをささげる
   ものです。

戦災・震災復旧モニュメント.JPG



 また、神戸大空襲犠牲者慰霊碑の説明板には次のように書かれています。

   今時大戦中神戸は空襲により大被害をうけた。なかでも
   昭和20年3月17日・6月5日の大空襲被害は大きく、
   市街の大半を焼却し多くの尊い生命をうばった。
   私達市民は二度と戦争の惨禍をおこさない決意をあらたにし、
   あわせてその犠牲者約一万名の霊の安らかならんことを
   心から祈念し、遺族市民から寄せられた浄財によって
   この碑を建立した。
     除幕 昭和50年3月16日
     碑石 大阪府下能勢の黒御影石 約10トン
     デザイン 環境造形Qグループ(山口牧生
          増田正和 小林陸一郎各氏)
     卍  焦熱地獄の熱風と平和の風を象徴
     慰霊祭毎年3月17日午後1時より碑前にて
     施主 神戸空襲を記録する会

空襲慰霊碑.JPG
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2010年03月14日

明日3月15日、山陽電車は開業100周年を迎えます

 風にのった沈丁花の香りを吸い込む。白モクレンや紫モクレンの花びらが少しずつ開いてくる。木瓜は赤色の花をやウンナンオウバイは黄色の花を今を盛りとたくさん咲かせている。

 春は神戸の鉄道にとって、色々と記念となる日が多い。今日3月14日、山陽電車開業100周年記念ウォークが開催された。明治43年(1910年)3月15日、山陽電車(正式には山陽電気鉄道)の前身の兵庫電気軌道が兵庫・須磨間5.7km全線複線で開業した。山陽電車開業100周年記念ウォークのスタート地点は湊町公園でゴールは須磨浦公園駅だが、旧兵庫駅を通って基本的には現在の山陽電車の路線に沿うようなコースになっている。

 ゴールでは参加者全員に参加賞が渡されたが、開業記念日である3月15日に先立って、記念ウォーク参加者向けに「開業100周年記念入場券」が販売されていたので、購入した。「開業100周年記念入場券」の袋の中には記念入場券が4枚入っており、兵庫電気軌道、神戸姫路電気軌道、宇治川電気、そして山陽電気鉄道の社章が印刷されており、袋の表には「明治43年(1910年)兵庫電気軌道(株)開業当時の兵庫駅」の写真がのっており、裏面には開業から昭和20年までの「客車両数の推移」がのっている。

山陽電車100周年ウォーク.JPG


 兵庫電気軌道開業に先立つ明治43年(1910年)3月10日、阪急電鉄の前身の箕面有馬電気軌道が梅田・宝塚間と石橋・箕面間で営業を開始し、大正7年(1918年)2月、阪神急行電鉄と改称した。

 阪神電気鉄道は、兵庫県下で初めての民営電気鉄道として、明治38年(1905年)4月12日、神戸(雲井通8丁目)・大阪(出入橋)間で営業を開始した。

 現在は廃止となった神戸市電の前身の神戸電気鉄道は明治43年(1910年)4月5日、春日野道、瀧道、栄町、楠公園を経て兵庫駅を結ぶルートで営業を開始した。

 神戸・大阪間の官営鉄道(旧国鉄)が営業を開始したのは、明治7年(1874年)5月11日だ。
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2010年02月14日

甦る神戸の名門オリエンタルホテル

 阪神・淡路大震災で全壊となったが
ORIENTAL HOTEL(オリエンタルホテル)15年ぶりに甦ります。3月3日にオリエンタルホテルがいよいよ開業します。浪花町56番地といえば神戸銀行(現三井住友銀行)を意味し、明石町40番地といえば大丸神戸店を表したように、京町25番地といえばオリエンタルホテルを意味したあの神戸旧居留地の京町25番地に開業するのです。

 兵庫開港後、神戸の発展は
ORIENTAL HOTEL(オリエンタルホテル)とともに発展してきたといっても過言ではありません。震災後、オリエンタルホテルがなくなり、神戸は灯が消えたようにさびしくなってしまいました。被災後神戸の活性化だ、と言って頑張ってきましたが、やはりシンボルが必要でした。15年ぶりに神戸のシンボルが復活するのは喜びにたえません。

 また、名門オリエンタルホテルの料理が味わえるのは非常に楽しみなことです。


阪神・淡路大震災で被災した15年前のオリエンタルホテル
被災したオリエンタルホテル.jpg


3月3日にオープンするオリエンタルホテル
開業するオリエンタルホテル.JPG
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2010年01月11日

須磨離宮公園の紅白のポインセチア

 須磨離宮植物園では、昨年の12月8日から今月中旬までの間、植物園観賞温室でポインセチア展を開催しています。これは植物園開園30周年を記念しての企画で、30種類のポインセチアを展示しています。クリスマスにあわせた企画展示で、神戸女子大学学生のコーディネートによるポインセチアディスプレイがあります。

 須磨離宮植物園は、神戸市制90周年を記念して、昭和54年4月28日に開園したものですが、これは須磨離宮公園に植物園を増設したもので、連絡橋で結ばれています。

 須磨離宮公園は、明治のはじめに建てられた西本願寺法主大谷光瑞の別荘を、明治40年2月2日宮内省が買い上げて、大正3年1月25日武庫離宮として完成しました。昭和20年12月、武庫離宮は神戸市に下賜され、昭和42年、今上天皇(当時は皇太子)御成婚記念事業として須磨離宮公園が完成しました。

 日本に初めて白のポインセチアを導入した福羽逸人(ふくば・はやと)は、武庫離宮の庭園設計者で、日本における温室栽培のパイオニアで、赤坂離宮や京都御所などの皇室庭園を手がけられた宮内省の役人です。

紅白のポインセチア.JPG

 冬のリビングにポインセチアをどうぞ!
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2010年01月03日

寅年のこうべ花時計

 神戸市営地下鉄海岸線の始発駅は三宮・花時計前駅です。この駅名の花時計とは、阪神・淡路大震災で座屈した神戸市役所2号館庁舎の北側にある花時計のことです。この花時計は、日本で最初に設置された花時計として知られています。

 この花時計が設置されたのは、昭和32年(1957年)4月6日で、阪神・淡路大震災で座屈した現在の神戸市役所2号館庁舎が、新庁舎として完成した時のことです。

 花時計の図案は、公募されたり、行事のテーマにふさわしいものとなっています。年に何回か花の植え替え工事がなされています。現在の図案名は今年の干支の「とら」になっています。紅白のハボタンで干支の寅を表現しています。

こうべ花時計:虎.JPG


 花時計の曲が時報を告げるのも面白いかもしれません。

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2009年12月29日

ノーベル文学賞候補だった賀川豊彦

 今年は、キリスト教思想家で社会運動家の賀川豊彦が神戸での活動を開始して、100年となります。それを記念して「賀川豊彦献身100年記念事業 神戸プロジェクト宣言」が行われました。その宣言の始めの部分を転載します。

   賀川豊彦献身100年記念事業 神戸プロジェクト宣言

 賀川豊彦が神戸での活動を開始して、まもなく100年を迎えます。
 これを機に、私たちは「賀川豊彦献身100年記念事業」を展開します。

 1909年12月24日、21歳の賀川豊彦は貧困にあえぐ人々のために献身しようと、当時、劣悪な環境で生きることを強いられた人々が生活する地域に入っていきました。賀川豊彦は当時死の病と恐れられていた肺病を病み、余命幾ばくもないと宣告された身体でしたが、貧困と差別のただなかにあって困難を抱えた人々と共に暮らし、徹底してこれらの人々のために働いたのです。

 転載はここまでです。

 「コープさん」の愛称で親しまれてきた灘神戸生協は、平成3年(1991年)の創立70周年を機に名称を「生活協同組合コープこうべ」に改称しました。この「生活協同組合コープこうべ」はキリスト教思想家で社会運動家の賀川豊彦の指導のもとに、大正10年(1921年)に前身の神戸購買組合・灘購買組合が誕生しました。

 賀川豊彦献身100年記念事業が各地で開催されている最中の9月に、驚くべきニュースが飛び込んできました。それは戦後間もない1947年と1948年の2回、ノーベル文学賞の候補になっていたことが分かった、という内容でした。スウェーデンのノーベル財団の公式サイトに掲載されたことから分かったものです。

 大正時代には自伝的小説『死線を越えて』がベストセラーになり、1954年からは3年連続でノーベル平和賞候補にもなっていたことは以前から知られていましたが、それより前にノーベル文学賞の候補にもなっていたのです。

 賀川豊彦を知るにはこちらが便利です。

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2009年12月27日

「韋駄天お正」白洲正子の夫白洲次郎

 骨董と人生の師だった青山二郎に「韋駄天お正」というあだ名をつけられた白洲正子は、夫白洲次郎と共に兵庫県三田市の心月院にある墓所で永遠の眠りについています。実はここ心月院は、三田藩主九鬼家の菩提寺・墓所なのです。

 九鬼水軍で名高い志摩国鳥羽藩の九鬼家は、家督争いを理由に山国の小藩の三田藩と丹波国綾部藩に移封されます。時を経て幕末から明治維新にかけて三田藩の財政立て直しを担ったのが、藩士の白洲退蔵(白洲次郎の祖父)と小寺泰次郎です。藩主の九鬼隆義は白洲退蔵と小寺泰次郎とともに「志摩三商会」という神戸初の輸入商社を設立します。

 山国に移封されていた三田藩は、いわば三田藩のブレーンだった福沢諭吉の教えに従い、兵庫開港の地・神戸へと移ります。兵庫開港は、九鬼水軍の血を騒がせる「水を得た魚」となったわけです。

 三田藩士の白洲退蔵と小寺泰次郎は、三田の二タイ(白洲大タイ・翁小タイ)と称せられて一藩の畏敬するところでした。藩校進士舘の教授白洲退蔵は、後に横浜正金銀行頭取となります。

 白洲退蔵の子が白洲文平で、建築道楽が趣味でした。その文平の次男が白洲次郎です。
 神戸一中、ケンブリッジ大学を卒業、昭和4年(1929年)に『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となります。国際文化会館の設立に尽力した樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合い結婚することになります。

 白洲次郎・白洲正子夫妻の長女の桂子さん(牧山桂子)の著作『次郎と正子―娘が語る素顔の白洲家―』が原案となったのが、NHKのテレビドラマ『スペシャルドラマ・白洲次郎』です。

 激動の昭和史を駆け抜けた白洲次郎の、伝説の生涯のドラマがあります。
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2009年12月26日

「韋駄天お正」白洲正子、平成10年12月26日没す

 平成10年(1998年)12月26日、能楽などの芸術評論で知られる随筆家の白洲正子が肺炎のため逝去されました。88歳でした。

 白洲正子は、明治43年(1910年)1月7日、東京府東京市麹町区(現東京都千代田区)に父・樺山愛輔と母・常子の次女として誕生しました。長女の泰子は、日本郵船会社社長の近藤廉平の次男・廉治と結婚した近藤泰子です。

 祖父は薩摩藩士・樺山資紀で、第1次山縣内閣、第1次松方内閣では海軍大臣を歴任しております。樺山資紀の長男として誕生したのが樺山愛輔です。母方の祖父は海軍大将・川村純義です。

 大正5年(1916年)、学習院女子部初等科入学。梅若流(現在の観世流梅若派)の二代目梅若實に入門し、能を習い始めます。大正13年(1924年)には、女人禁制の能の舞台に史上はじめて女性として立ち、「土蜘蛛」を舞います。

 昭和4年(1929年)、白洲次郎と結婚します。

 昭和21年(1946年)、河上徹太郎を介して、小林秀雄、青山二郎と出会います。青山二郎の影響で骨董の世界に没入します。日本の美についての随筆を多く著すのは、青山二郎や小林秀雄の薫陶を受けたからです。

 昭和54年(1979年)、骨董と人生の師だった青山二郎が亡くなります。「韋駄天お正」というあだ名をつけたのは青山二郎でした。

 平成6年(1994年) 、新潮社より『白洲正子自伝』が刊行されます。

 平成10年(1998年)12月26日、逝去され、墓所は夫白洲次郎と共に兵庫県三田市の心月院にあります。心月院は、三田藩主九鬼家の菩提寺・墓所なのです。

 戦中に食糧難事情を見越して購入した現東京都町田市にある白洲次郎・正子夫妻の旧邸宅の武相荘(ぶあいそう)は、記念館・資料館となり一般公開されています。

 『白洲正子自伝』
を参考に書きました。
posted by booknikoniko at 15:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 神戸歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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