2010年03月19日

瀬戸内寂聴、加藤唐九郎を語る・続

 日本経済新聞の3月14日日曜日の瀬戸内寂聴さんの「奇縁まんだら」には、先週に続いて「天にも上る心地の唐九郎」というタイトルで、加藤唐九郎のことが書かれています。

 白洲正子加藤唐九郎との対談集のことや着物を購入したことなどが書かれていますが、何といっても気になったのは、「要するに(永仁の壷事件は)大東亜戦争直前に、軍に命じられ、国民精神高揚運動で協力したのだと告白している。」という箇所です。

 前回の記事で「翠松園」という地名がでてきて、その主が加藤唐九郎であることを初めて知りました。実は小学校に入学して担任でもない何人かの先生方に「お前は翠松園のお屋敷に住んでいるのか」と聞かれたことがあります。家に帰って両親に話すと「知らん。親戚ではない」と言われました。それは正しかったことになりますが、「翠松園のお屋敷」の主とは誰かとずっと気になっていたのです。もっとも何で何人もの先生方に聞かれたのは今もって分かりませんが。

 今回の記事で引っかかったのは、「軍に命じられ」とか「軍につながる問題」とかの箇所です。

 通っていた小学校は、自衛隊の駐屯地がある町でした。現在もあります。米軍の家族キャンプが小学校の校区内にあり、近くの神社の神主の息子とは同級で、近くの同級生と神社の境内でよく遊びました。たまに有刺鉄線で覆われた近くでツル性の植物の実やカニや魚をとったりしたことがありました。気が付いてみると、急に米軍の家族キャンプがなくなり、その跡地は公園となりました。今思えば、60年日米安保条約改定のためだったと思いますが、その当時はそんなことは考えてもみないことでした。

 米軍のジープは小学校の隣の道路を猛スピードで走っていましたので、道路横断には注意するように学校から言われていました。校庭から米軍のジープが通るときに「ヤンキー ゴーホーム」とよく叫んだものです。上級生が叫ぶので下級生もいつしか一緒に叫ぶようになったのでしょう。

 小学校の裏手には自衛隊の演習場がありました。米軍のジープだけでなく、自衛隊の車両が演習のためによく通っていました。山肌が垂直にむき出しになっているのは、射撃演習でそうなったのだと聞かされていました。当然立ち入り禁止地域なのですが、なかには薬莢を拾って鉄屑屋に売って生活費の足しにしている家庭もあったようです。現在この演習場はどうなっているかは知りません。

 この演習場の近くに「翠松園」はあります。戦前がどうだったのかは知りませんが、「翠松園のお屋敷」の主の近辺に自衛隊の演習場が配置されていたのは、無形の圧力だったのではないか、とこの記事を読んで感じた次第です。
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2010年03月12日

祖母と母が姫路駅で大根をかじりながら東の赤い空を見ていた

 昭和20年(1945年)3月13日深夜、母と祖母は姫路駅に着いた。神戸に向かう列車はもうなかった、というより神戸に向かう筈の列車が大阪から来なくなったので乗車できなくなったらしい。東の空が赤くなっているのを駅頭から目撃したそうだ。東の空というのは大阪だった。大阪大空襲だった。3月10日には東京大空襲があり、それから何日も経っていないのに大阪を米軍機が焼夷弾を大量に爆撃した。

 祖母の実家は現在の香美町だが、姉が江原駅の近くに住んでおり、近くの農家から米などの食糧が手に入るときいていたので、少しでも食糧を分けてもらおうと祖母と母の二人が3月13日朝出かけたそうだ。

 お昼頃に江原駅近くの姉の家に着いたのだが、白米の昼食が食べられると期待していたのに、出されたのはお茶一杯だけで、後は何もでなかったそうだ。食料は何も期待できそうにないと思い、仕方なく手ぶらで神戸に帰ることにしたところ、大根2本がお土産として渡されたそうだ。近隣の農家から食糧が手に入るというのは実際にはどうだったのかは分からないが、やはり食糧事情はよくなかったのだろう。

 播但線経由より福知山線経由の方が運賃は安いのだが、もう福知山線経由では神戸に帰るいい列車がなかったので、和田山で播但線に乗り換えて姫路駅に向かったそうだ。

 ようやく姫路駅に着いたものの神戸に向かう列車はなく、仕方なく翌朝の朝一番の列車を待つことにしたそうだ。その時に大阪大空襲で燃える大阪の赤色を見たわけだ。東の空は明石か神戸か西宮か尼崎かと思ったらしいが、大阪とまでは思わなかったそうだ。

 お昼には久しぶりに白米のご飯が食べられる、と期待していたのに、お茶一杯だけでもう半日近く経っているので、さすがにお腹がすいた、どうしようということになって、お土産にもらった大根2本は洗ってあったので、東の赤い空を見ながら1本ずつかじってひもじさをしのいだそうだ。

 翌朝の一番列車で神戸に帰ったが、結局、食糧調達は徒労に終わってしまった。
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2009年12月10日

徳不孤必有隣

 昨日は阪神・淡路大震災メモリアル第15回神戸ルミナリエに行きました。12月5日に続いてのルミナリエです。昨日は珍しく夕刊を読みませんでした。今日になって朝刊を読んだ後に昨日の夕刊を眺めていると、「目利きが選ぶ今週の3冊」の記事の下の広告の「有隣堂は、創業100周年を迎えます。」のコピーが目に入りました。

 今から40年位前に横浜に住んでおり、よく有隣堂に行って本を買ったものでした。非常に懐かしい名前でした。よく見ると、「2009年12月13日、おかげ様で」とあります。「2009年12月13日、おかげ様で 有隣堂は、創業100周年を迎えます。」とのことで1世紀にわたって知的興奮を提供してきたことになります。

 有隣堂の社名は、『論語』の「徳不孤必有隣」(徳ある人は孤立しない。必ず理解し共鳴する人が現れる)に由来しています。明治42年(1909年)12月13日、横浜伊勢佐木町に創業したそうです。

 今朝の日経には、さいか屋が主力の川崎店を売却とあります。私的整理手法の一つである事業再生ADR(裁判外紛争解決)手続きで経営再建を目指す百貨店とあります。横浜に住んでいたころ、たまに川崎のさいか屋に行ったことがありますが、大体は伊勢佐木町の百貨店でした。

 伊勢佐木町にある百貨店と言えば、野沢屋とか松屋、松喜屋がありましたが、今はもう無いようです。伊勢佐木町の商店街に流れていた曲は、ピンキラの「恋の季節」でした。そんな中で創業100周年を迎えられる有隣堂には、社名の通りに今後も期待致しております。

 有隣堂の物語をどうぞ!
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2009年11月20日

唐招提寺:奈良・西の京の秋の世界遺産遠足4

 薬師寺の玄奘三蔵伽藍で一休みした後に、唐招提寺へと急ぐ。薬師寺から唐招提寺へと向かう人より唐招提寺から薬師寺へと歩く人々の方が多い。

 律宗総本山の唐招提寺は、759年(天平宝字三年)に創建されているので、今年が創建1250年ということになります。唐の国から来朝した鑑真和上の招提(御仏のもとに修行する場)という意味をお寺の名に掲げています。解体大修理を終え偉容を現した金堂は、薬師寺とは異なった風格があります。

唐招提寺.jpg


 開山唐僧の鑑真和上は唐国揚州大明寺の高僧で、聖武天皇の寵招に応えて来朝することになりましたが、754年に東大寺に到着するまで十二年間、いくたびかの難航海であったにも関わらず来朝を試み、奈良の都に着いた時は両眼を失明していたとのことです。我が国の多くの高僧たちに授戒され、天平文化に及ぼした影響は計り知れないものがあるそうです。

 鑑真和上は763年5月6日、76歳をもって寺内に示寂されましたが、弟子たちが造った和上の寿像は御影堂に安置されています。残念ながら開扉される期間ではありませんでしたので、御影堂の前と鑑真和上御廟を拝むばかりでした。

 印象的だったのは校倉造りの建屋で、北が宝蔵で、南が経蔵となっています。史実としては南にある経蔵は756年成立の正倉院宝庫より古く、我が国最古の校倉だそうです。

 伽藍内の紅葉の写真を撮る観光客が多く見られましたが、戒壇前に咲いているアヤメを面白く感じました。

 唐招提寺東入口の交差点のそばに、大和の地酒を扱っているお店があります。店主の方が地元のお酒を色々と説明してくれました。買ったお酒は平城京遷都1300年記念せんとくんラベルの春鹿の吟醸酒です。値段は平城遷都1300年祭にちなんで1,300円です。フルーティーな香りの強いさっぱりとした味のお酒でした。

春鹿091120_112739.jpg


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2009年11月19日

薬師寺:奈良・西の京の秋の世界遺産遠足3

 法相宗(ほっそうしゅう)大本山の薬師寺は、白鳳時代の680年、壬申の乱に勝利した大海人皇子が即位した天武天皇により、皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して、薬師寺建立が発願されます。697年に小倉百人一首で「春すぎて夏來にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山」を詠んだ持統天皇によって本尊開眼されます。

 更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。その後、710年平城遷都に伴ない現在地に移されたものだそうです。
 現在は平成10年よりユネスコ世界遺産に登録されています。

薬師寺金堂.JPG


 東塔は解体修理工事の足場が組まれているので、残念ながら西塔のようには東塔を観ることはできませんでした。

薬師寺東塔.JPG


 病気平癒を祈願して建立された薬師寺ですので、早速薬師如来様に左手親指骨折の早期快癒を祈願しました。これからリハビリをすることになるのですが、骨折した先はしびれたままで、薬を飲んでいるものの一生しびれとは仲良くしないといけないようです。どの程度まで動かせるようになり力を入れられるようになるのかは大いに気になります。

 薬師如来様を中央に、向かって右に日光菩薩、向かって左に月光菩薩がお祀りされており、あわせて薬師三尊と言われます。薬師如来様が座っておられる台座には、世界の文様が刻まれています。中国の東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武の彫刻がなされていますが、白虎が青龍のように細長く、虎の顔をした龍といった趣でした。

 薬師寺は、白鳳伽藍と玄奘三蔵伽藍がありますが、それにしても広い大伽藍で度肝を抜かれた次第です。

奈良・西の京の秋の世界遺産遠足、をご覧ください
郡山城址を歩く:奈良・西の京の秋の世界遺産遠足2、をご覧ください

薬師寺の多くの建物は火災などにより消失していますが、東塔のみは建立当時のまま残っています。足場が組まれていますので、代わりに1/75 プラモデルキットで東塔を楽しむこともできます。

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2009年11月17日

郡山城址を歩く:奈良・西の京の秋の世界遺産遠足2

 金魚の町大和郡山のマンホールには金魚が描かれている。赤く金魚が描かれているマンホールもある。外堀緑地から道路の中央に水路のある道を通り、郡山城址に着く。奈良県立郡山高校前を通り、城址散策道入口からお堀の周りを歩いて行くと格式のある建物が目に入る。天主台に行って、先ほどの建物を上から見る。

元奈良図書館.JPG


 この建物は、もと県立奈良図書館として、明治四十一年、奈良県技師橋本卯兵衛氏の設計により建てられた木造瓦葺二階建の堂々たる建物で、昭和四十五年に移築されたものです。今は市民の集会等に利用されており、平成九年三月には、奈良県指定文化財となり、文化的にも貴重な建物となっています。

 天主台の裏側には「さかさ地蔵」があります。大和郡山城の本格的な築城は、天正十三年(1585年)、豊臣秀長が入部して百万石の居城にふさわしい城造りがなされようとしたことに始まるそうです。築城のための石不足が起こり、奈良中に五郎太石(石垣裏込め用)の採集を命じるほか、寺々の庭石や礎石、五輪塔、石地蔵などを接収されたそうです。

 この天主台周辺の野面積みの石垣には、平城京羅城門の礎石や、石地蔵、五輪塔などがおしげもなく積み込まれていて、さかさ地蔵もこのうちの一つで、石造地蔵菩薩立像が逆さに積み込まれているので「さかさ地蔵」と呼ばれています。

さかさ地蔵.JPG


 地蔵は、左手に宝珠を持ち、右手に錫杖を持っており、仏身は約九十センチメートルの立像で大永三年(1523)癸未七月十八日の刻銘があるそうです。さかさ地蔵の隣には石仏が数多く置かれています。

奈良・西の京の秋の世界遺産遠足、をご覧ください

全国金魚すくい選手権大会であまりにも有名な大和郡山市です!

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2009年11月16日

奈良・西の京の秋の世界遺産遠足

 昨日は知人からのお誘いで、奈良・西の京の秋の世界遺産遠足に行きました。 

 知人より急な「奈良・西の京〜遠足のご案内」を頂戴しました。その趣旨は、唐招提寺の金堂が長年の解体修理を終え、久々に拝観できるようになったと思ったら、今度は薬師寺の東塔が解体修理に入るので、この機会を逃せば、薬師寺・唐招提寺の全体像を一度に観られるようになるまで何年も待つことになるので、遠足を企画した、とのことです。

 丁度今年で創建1250年の唐招提寺は、鑑真和上ゆかりの国宝の金堂が、平成12年以来の解体修理工事を終え、鴟尾も新調され、今月1日に姿を現したばかりでした。また、堂内に安置されるご本尊などの仏像も修復されたばかりですので、非常に関心を持っていたところでの企画でしたので、遠足に行くことにしました。

 JR大和路線郡山駅に集合し、外堀緑地→郡山城址→?→薬師寺→唐招提寺が予定のコースでした。
 JR郡山駅に置いてある郡山駅「駅からecoマップ」も参考になるので手にして、集合場所の花時計前に行きました。よく見ると花時計は止まったままでしたので、写真の時間に集合したわけではありません。

郡山駅花時計.JPG


 郡山城址から九条、七条へと歩き薬師寺に向かう途中で急に北行きから西行きに薬師寺から遠ざかる方向に進路を変えたので聞いたところ、薬師寺の写真スポットに行くとのことで、案内の「?」とは薬師寺の写真スポットのことでした。

 薬師寺の写真スポットの大池から見る薬師寺は、案内時にはまだ薬師寺東塔の解体修理工事の足場は組まれていませんでしたが、残念ながらもう足場は組まれておりました。

大池より薬師寺を望む.jpg
 

古都奈良の文化財のひとつとしてユネスコの世界遺産に登録されている名刹の薬師寺は、東西に塔を持つ「薬師寺式」と呼ばれる伽藍は、1300年前の白鳳文化を今に伝えています。金堂の薬師如来の台座は、ペルシャやインド、中国から伝わってきた文化が刻み込まれていて、白鳳時代という独自の文化を開花させています。

 丁度、玄奘三蔵院伽藍と平山郁夫画伯が30年の歳月をかけて完成させた壁画のある大唐西域壁画殿が今年の秋季の一般公開をされていましたので、良いタイミングに拝観できました。

薬師寺には、金堂の薬師如来を中央に、日光菩薩と月光菩薩の薬師三尊像をはじめとする日本を代表する至宝が、長期間にわたって大切に守り伝えられています。

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2009年05月15日

今日5月15日は、俳優・映画監督 伊丹十三の誕生日

 今日5月15日は、俳優・映画監督の伊丹十三の誕生日である。

 東京・世田谷に引越してドアを開けると伊丹十三の家が見えることを知ったのは、引越して1週間ぐらい経ってからだっただろうか。

 しばらく宿屋住まいで仕事をしていたが、入居先が決まり、世田谷に住むことになった。大阪で打ち合わせがあり、午後11時過ぎに家に帰ってきたら、妙に家の周りが明るかった。一体何があったんだろう、と思いながら家の中に入った。

 翌朝の新聞を見てびっくりした。写真にどこかで見た風景が写っていたからだ。昨夜の明かりは、新聞やテレビ局などの伊丹十三への記者会見だったのだ。以前暴漢に襲われ頬に傷を負ったが、襲った暴漢を警察が逮捕したので、そのことについての記者会見というよりインタビューだった。その記事で伊丹十三の名が、池内義弘であることも知った。

 出勤するたびにあそこが伊丹十三が住んでいるところかと思ったものだ。そこでは2年ちょっと暮らしたが、一度も伊丹十三や宮本信子に出会うことはなかった。

 そして、1997年12月20日、写真週刊誌「フラッシュ」により不倫疑惑が取り沙汰されたことに対して「死をもって潔白を証明する」とのワープロ打ちの遺書を残し、伊丹プロダクションのある東京麻布のマンションから投身自殺を遂げる。これはショックだった。不倫疑惑で自殺するとはとても思えなかったからだ。
 何が真実かは知らない。彼が作る映画作品をもう見られなくなった、という現実が残された。「フラッシュ」第526号は今も大事に保存している。

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2009年05月12日

30万円の花の写真をアップしました

 1987年、ゴッホの「ひまわり」の絵が58億円で落札されたことがあったが、30万円の花の絵を買ったわけではない。
 早速30万円の花の写真を見ていただこう。

30万円のアイリスの花.JPG


 そう、何の変哲もないありふれたアイリスの花である。なんでこのアイリスの花が30万円もするのだろうか。

 2004年があけてすぐだっただろうか、当時はグッドウィル社が絶頂期にある頃だったろうか、これからは介護ビジネスがますます拡大・成長する時代だ、ということでN社の株を買った。このN社は身近に介護サービスセンターがあり、アイリスという名がついていた。アイリスはN社のシンボルマークだった。買った株数は100株で、売買手数料等を含めると60万円だった。株主総会が終わり、配当金とともに株主優待商品の案内があった。これといって欲しいモノはなかったが、折角なのであるモノを頼んだ。頼んだモノはアイリスの球根2球だった。やがて球根が来て、時期となって2球を鉢植えした。肥料が充分でなかったせいか、花が咲かない年もあった。球根もあまり大きくならず、株分けする状態にもならず、かれこれ数年過ぎようとしている。

 今年の3月末、株式分割があり、100株から200株になったが、早く株分けできるくらいの球になってもらいたいものだ。アイリス2球の取得価格は60万。2球あるので、1球が30万円ということになる。30万円の花が、文字通り早く30万円に花になってもらいたいものだ。

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2009年05月10日

奇妙な信号機の表示板

 新しく山を切り開いた新興住宅地に住んでいる。道路が整備され、住宅地、商業施設、小・中学校、オフィスと開発されていった。この町に住むようになって、ずーっと気になっていることがある。

 それは信号機である。信号機の何が気になっているかというと、信号機が設置されている場所の表示である。何と書いてあるかというと「中央センター北」とある。「センター」は「中央」なのに、「中央センター」とあるから気になっているのではない。センターとして中央館があって、東館や西館、あるいは2番館とか別館とかがある場合もあるので、そう違和感はない。奇妙なのは「中央センター」なる名称の建物は、開発当初から全く存在していないにもかかわらず、あたかも自明であるかのように「中央センター」を主張していることにある。この土地に不案内な人が「「中央センター」ってどこですか」と聞かれようものなら困ってしまう。実在しない建物を聞かれたって答えようがないではないか。

 問題は何故実在しない構造物の名称が使われたかだが、思うにこの町の開発計画の設計図に仮称として「中央センター」なる奇妙な名称が使われていたからではないだろうか。まだ確かめたことはないが・・・。

路上観察学入門


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2009年03月18日

陸の孤島

 リアルでは10数回引越ししましたが、バーチャルでは今回初めて引越しをしました。
10年以上もお世話になったNiftyからJ:COMに変更しました。
理由は、NTTの光ファイバーが利用できないからです。

 NTTの光ファイバーが利用できないとは信じられないでしょう。
K市との建築協定により、NTT・電線・ケーブルテレビ用線はすべて地下埋設となっています。

 NTTの光ファイバーは目の前に来ているのですが、電柱から宅内に引き込むことができません。
阪神・淡路大震災により配管に異常があるようで、光ケーブルが折れ曲がり電柱まで全く届きません。
メンテナンス用マンホールの蓋がやはり震災で微妙に円形から少し変形していて、さびのため蓋と回りと一緒になり、工事用ジャッキで蓋を持ち上げようとするとジャッキの鎖が切れてしまうという始末です。

 掘り返せば対応できるでしょうが、共有地を掘り返さないといけませんので、承認手続きがいること、工事費用は当方負担となること、工事をすると自動車を使用できなくなる家があること、で掘り返しは断念しました。

 残る手段は、ケーブルテレビか電線を使うかですが、パソコンのセキュリティ環境に苦しんできたこともあり、J:COMにすることにしました。

 このような事情は不思議なことに私の家だけが問題で、何で問題にするのかNTTを含めて理解してくれない状態で、完全に陸の孤島になってしまっています。
 多発する迷惑メールを一挙に片付ける意味合いもあり、メールアドレスを変更することにしました。
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2009年02月21日

フラッシュバック

 今日は弟の月命日です。
昨年1月に弟が亡くなりましたが、引き金を引いたのはインフルエンザでした。

 1月21日の午前4時40分頃、弟が入院している病院から電話がかかってきました。午前3時半頃から母と昨日医者に言われた処置に対してどう返答しようかと堂々巡りの話をしている最中でした。意外に早く来てしまったなあ、というのが偽らざる無念な気持ちでした。

 弟は隔離部屋に入院しており、弟の死亡確認をするために、感染するといけないので、頭にはキャップ、最高水準のマスク、手袋、エプロンなど完全武装し隔離部屋に入りました。
 眼はまばたきをせず、瞳孔は開いたままでした。口には人工呼吸器の吸入口をくわえたままになっていました。心電図は一直線の信号となっていました。死亡宣告がなされました。

 死亡したにもかかわらず、死因が分からないから解剖させてくれ、と言われ「死亡診断書」がないと何もできないので、同意、その後、今後の医学のために献体してくれと言われ、同意しました。

 担当した医師からは直接インフルエンザと死因との因果関係の説明はなく、他の医師に相談した所、インフルエンザ菌(何らかの悪性ウィルス)は通常肺に入るが、ごくまれに脳か心臓に入ることがある、とのこと。脳より心臓の方がさらに入りにくいとのことでした。

 その後、心臓関係の本や情報を調べたところ、上記の推論ではなく、次の可能性で亡くなったのでは
ないか、と今では考えております。
数年前に、弟は急性心外膜炎で救急病院に入院しましたが、すぐに退院しました。その時、急性心外膜炎を起こしたウィルス菌が潜伏し、インフルエンザに罹って、それが潜伏していた悪性のウィルス菌を目覚めさせ、一気に心臓、首、手、足の筋肉を破壊してしまった、と考えるのが自然ではないか、と。

 今回、救急車で搬送された時は、血圧は測れず、足には血が流れておらず、壊死を開始していたようです。

 弟は死ぬと思って死んだのだろうか、死を意識したのはいつだったのか、何か言いたかったことは
あったのだろうか、等、死亡確認まで隔離部屋に入いることを許されなかったので、今となっては全く不明です。

 インフルエンザ恐るべし、です。恐れてばかりいては何もできませんが、できるだけリスクを減らすようにし、予防をすることにお互い努めることが大事だと思っています。

 今でも時々夜中に眼が覚めた時、弟の死顔がフラッシュバックすることがあります、忘れることは出来ません。
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2000年01月17日

阪神・淡路大震災

 1995年1月16日、東京・世田谷より神戸に引越しをした。翌朝、1995年1月17日午前5時46分、急に下から激しく突き上げるモノがあった。これは地震ではない。今までの地震ではこんな揺れ方はしなかったから。福井県にある関西電力の原子力発電所が爆発したのだろうか、北朝鮮がミサイルを撃ち込んできたのだろうか。そうではない、やっぱりこれは地震だ。あわてて隣で寝ていた妻に「地震だ」と言って起こした。そう、阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)だったのだ。地震は連続して起こったのではなく、2回ほど瞬断したから3回発生していることは分かった。地震が起きた時、もう目は覚めていた。引越荷物の整理の段取りを考えていたのだ。大物の家具や電化製品は、動線を考えて所定の位置に配置をしていたが、小物や多くの段ボール箱は全くの未整理で、何からどう片付けようかと考えていたのだ。

 ひどい揺れで、壁が崩れ天井が落ちるのではないか、と寝床の中でおびえながら、早く揺れがおさまってくれ、と祈るばかりだった。これだけひどい揺れだから、近くで地震が発生したことは間違いない、とは思ったものの、この時はまだ淡路島が震源地であることは知らなかった。

 後から思い起こすと、引越荷物の整理の段取りを考えていた時、地鳴りを聞いていたが、それが地鳴りだとは全く思わず、ましてこれから大地震が襲ってくるなどとは全然考えもしなかったのだ。

 電話はまだなかった。電話工事は17日の午後にすることになっていたからだ。取りあえず無事であることを実家に伝えようと10円玉7枚を持って近くの公衆電話から電話した。100円玉での電話はもうできない状態だったが、遠地であったにもかかわらず、10円玉7枚で両方の実家に無事を伝えることができた。

 隣家の奥さんから、南へ行く道路は地震でがたがたになっていて、車で通行できない状態だ、阪神高速道路が倒れた、ということを聞いた。午前7時ごろ自転車で長田方面が見える高台に行ったところ、煙が3筋と奥のほうに2筋あがっていた。地震に火事はつきものだ、と言われるがやはり火事が何箇所かで発生していた。

 引越のため食料は米以外には全く持ってこなかった。さあ、食料をどうするか。米は持ってきたことは間違いないが、探しても見つけることはできなかった。近所の方から、穀類と野菜を頂戴し、それでしのぐことができた。非常にありがたいことでした。

 転勤休暇だったので、出勤する必要はなかったが、神戸に何回電話しても全くつながらない、仕方がないので、東京に無事であることを連絡すると、今後は別の場所に電話して対応するようにとのことだった。公衆電話から電話したのだが、サラリーマンの多くが並んで順番待ちをしていた。家庭の電話から通話できないようになっていたから、みんな公衆電話に並んだというわけだ。出勤できない状況を一生懸命に説明しているサラリーマンが多かったが、大阪に通っているサラリーマンは何回説明しても分かってもらえず頭ごなしに怒鳴りつけられている声がよく聞こえ、非常に腹立たしい限りだった。

 この大地震で幸運だったことは、早朝に発生したことだ。新幹線を除く電車は既に始発列車は出発していたが、まだ乗客は少なかったし、連休明けの活動はまだほとんど始まっていなかったからだ。昼間に発生していると、どうなったかといえば、神戸の中心部に通うサラリーマンの多くは、明石とか加古川・姫路の人が多いから、夫(父親)をなくす家庭が多くなり、神戸中心部に住む家庭では、大阪に通うサラリーマンが多いから、逆に夫(父親)だけが生き残る家庭が多くなるという恐ろしい状況となっていただろう。そうならなかったのは全く幸運だったとしか言いようがない。
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