2009年07月31日

神戸の横穴式石室:高塚山の森を歩こう会(12)

 神戸市営地下鉄山手線の終点駅の西神中央駅で降りて約10分弱のところに西神中央公園がある。南の方に歩くのだが、感覚的には東に歩いている感じがする。それは西神中央駅が東西ではなく南北のためだ(やや南北に近いのだが)。

 その西神中央公園の中に神戸市埋蔵文化財センターがある。そこでは今「神戸の横穴式石室」という企画展示を行っている。入館料は無料で、平成21年8月30日までの企画展示で、月曜日は休館している。

 横穴式石室は神戸市内各所の古墳から発掘されている。神戸市は地勢的には摂津の国と播磨の国とにまたがる特異な市であるが、摂津の国からも播磨の国からも横穴式石室は発掘されている。

 今住んでいる近くには、高塚山古墳群というのがあり、総数15基でうち9基が発掘調査されている。この企画展示では高塚山古墳群では、高塚山1号墳と8号墳の2つの古墳から出土された須恵器が出品されている。

 出土された須恵器は型式により年代を特定する重要な手掛かりとなる。
 横穴式石室は、古墳時代後期に採用された新たな葬法ということだが、須恵器の型式による推定年代は、MT15型式が510〜530年、TK10型式古段階が530〜550年、TK10型式新段階が550〜570年、TK43型式が570〜590年、TK209型式が590〜610年、ということだそうである。

 昔のことなのに20年単位で年代が特定できるとは驚きである。
 学芸員の方に型式に使用されているMTKの意味についてお伺いしたが、結局何を意味しているのかは分からず仕舞いだった。須恵器で何故年代が特定できるのかというと、須恵器を製作した窯からだそうで、大阪府下で発掘された須恵器の窯でその特徴を特定できるから、とのことである。

 神戸市埋蔵文化財センターの入口近くには、高塚山1号墳の横穴式石室が移築されている。この高塚山1号墳は、高塚山古墳群の中で最も南に位置しており、標高は164.6mで最も低い所に造られている。

移築された高塚山1号墳.JPG


高塚山1号墳説明書.JPG


高塚山の森を歩こう会(5)、をご覧ください


西神中央駅前にあり、神戸(三宮)・明石・淡路へのアクセスに便利なホテルです!
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2009年07月30日

知らなかった、今年がギネス250周年記念とは!

 まだ梅雨明けしていないが、久しぶりの夏の暑さの中でのテニス後のビールはうまい。今日はギネスビールがお昼の友だ。

 昨日、いつもとは違うスーパーDで「いまなら、250周年記念限定グラス プレゼント!」を見つけたので買った。330ml缶3本と250周年記念限定グラス1個のパッケージ商品である。その1本を飲んだというわけだ。

ギネス250周年記念.JPG


 ギネスビールは国産の缶ビールが350mlであるのに対し330mlで、アルコール分は4.5%、原産国はアイルランドのドラフトギネスだ。

 プルタブを開けると、缶内に白球のフローティング・ウィジェットが入っているので、変な少し大きな音がする。これはギネスビールの特徴であるクリーミィな泡を作るために入っているとのことだ。

 「ギネス250周年記念限定グラス」の箱には、こう書いてある。
ギネスビールの創始者であるアーサー・ギネスが、アイルランドのダブリンにあるセント・ジェームズ・ゲート醸造所でビールの醸造を始めたのは、1759年のことでした。それから250年、いまでは多くの熱狂的なファンを獲得し、150以上の国々のパブや家庭で愛飲されています。(以下略)

 パッケージには「ギネス250年の軌跡」が書かれている。書かれてあるのは本当に歴史の概略だ。その中の一つ、200年後の1959年を見ると、きめ細やかでクリーミィな泡のドラフトギネス販売を開始、とある。

 後の2本は夕食の友だ。

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2009年07月29日

「水害記念碑撰文」に何が書かれているのか

 昭和13年7月、阪神大水害の最も被害の甚だしい所だった住吉学園の庭園の東北隅には大きな水害記念碑がある。

 阪神大水害で流出した3トンもある巨岩には、写真では枝に隠れてよく分からないが、「禍福無門」と災害当時の内務大臣海軍大将末次信正の揮毫がある。巨岩の乗っている台座には「水害記念碑撰文」がある。

img015.jpg


img016.jpg


 この「水害記念碑撰文」に何が書かれているのだろうか。読めない箇所が一箇所あるが、次のように書かれている。

   水 害 記 念 碑 撰 文
維時昭和十三年七月五日午前九時三十分、連日ノ降雨ニ加フルニ朝来ノ一大豪雨ハ六甲背山ヲ削リテ見ルモ恐シキ山津波ヲ起シ住吉川畔一帯ヲ初メ殆ンド全村ニ亘リテ濁流土砂奔馬ノ如ク荒レ狂瀾怒濤幾千貫ノ巨巌唸リヲ生ジテ飛ビ其ノ凄惨ナル光景慄然トシテ言語ニ絶ス、斯クテ此ノ未曾有ノ水魔ハ時餘ニシテ三十三ノ精霊ヲ呑ミ流失全壊ノ家屋百有餘、全村ノ七割二千七百戸ニ多大ノ災禍ヲ与ヘ文化ヲ誇リシ住宅街モ一朝ニシテ土砂堆積シ巨巌磊?タル荒野ト化セリ、凶報上聞ニ達スルヤ 畏クモ七月十日侍従ヲ御差遣被遊且多大ノ内帑ヲ下賜セラル茲ニ稀有ノ惨禍ヲ記念シ 至尊ノ鴻恩ヲ銘記シ惨害ノ現状ノ一部ヲ当時ノ儘ニ遺シ親シク惨状ヲ視察セラレシ末次内相ノ扁額ヲ流巌ニ刻シ以テ永ク後ノ世ノ鑑戒タラシメントス
    昭和十四年十二月
              武庫郡住吉村建立

「禍福無門」の垂訓がある旧住吉村の水害記念碑、をご覧ください


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2009年07月28日

「禍福無門」の垂訓がある旧住吉村の水害記念碑

 平成20年(2008年)7月28日、神戸市灘区の都賀川の増水事故が発生した。短時間に局地的に激しく降るゲリラ豪雨で都賀川が急激に増水し、激流に巻き込まれた小学生ら5人が流され死亡した
事故である。水位は事故前後の10分間で約1.3m上昇するものであったという。

 平成21年(2009年)7月19日から26日にかけ、中国と九州北部で記録的な豪雨となり、死者20人以上を出すなど大きな被害が発生している。この記録的な豪雨は「中国・九州北部豪雨」と命名された。

 7月は集中豪雨による増水や山崩れ、土石流等による事故が多い月だ。
 昭和13年(1938年)7月5日は、阪神大水害と命名された連日の豪雨により多くの河川が氾濫し、神戸市街が大きな被害を受けた日だった。

 旧住吉村(現神戸市東灘区)でもこの阪神大水害により33名の方が住吉川の水魔に呑み込まれた。阪神大水害の最も甚だしい所だった住吉学園の庭園の東北隅には大きな水害記念碑がある。

img015.jpg


 『住吉村誌』(p.1134-1135)によると、この水害記念碑について、次のように書かれている。

 水害記念碑は災害の甚だしかった観音林倶楽部の東部に建設せらるる事と成り、十四年十月五日地鎮祭を行ひ工事費四千円を以って着手した。石碑は水害で流出してゐた八千貫の巨岩を其のままに用ひ、碑の高さも亦水害当時の水位とし巨岩濁流の物凄い当時の光景を髣髴たらしめ様としてゐる。題字は災害当時の内務大臣海軍大将末次信正閣下で左傳の「禍福無門」を以て垂訓せられてゐるが、愈々七月五日の記念すべき朝、村関係者等列席の下に除幕式が挙げられてその威容を現した。

 水害記念碑には「水害記念碑撰文」があり、「昭和十四年十二月 武庫郡住吉村建立」とある。

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若かりし日の父の写真、をご覧ください

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2009年07月27日

恋の願いごとを成就させたい方は、氷室神社に願掛けを

 神戸市兵庫区には「兵庫区歴史花回道」という区内ウォーキングコースが2つある。そのうちの1つが、清盛七辨天だ。清盛とは勿論平清盛のことだ。兵庫津は大輪田の泊と呼ばれた昔から天然の良港として知られていたが、平清盛は兵庫に築島を築き、宋の国との交易を盛んにし、我が国の経済の発展を図りました。1180年(承安4年)に平清盛は厳島神社を勧請し、宮島にある七つの海岸にちなんで、兵庫に七つの辨財天をお祀りしたのが始まりという。

 清盛七辨天の一つに氷室神社がある。
 仁徳天皇の異母兄・額田大中彦が夢野の地で狩りをしていた時に、穴倉を見つけ、村長に聞いたところ、「冬に取った氷を茅で包んでおくと、夏になってもこの氷を使える」とのことだった。天皇に氷を献上したところ、たいそう天皇がお喜びになられたことから、この夢野の地に仁徳天皇を祀って創建されたのが、氷室神社である。

 この氷室神社は、仁徳天皇に氷が献上されたと伝わる神社で、心変わりした牡鹿の民話(夢野の民話として「鹿の夢」がある)のほか、源平の合戦時には、平通盛と愛妻の小宰相が別れを惜しんだ場所とされ、恋にまつわる言い伝えが多いことから、「れんあいべんてん」の愛称がある。

れんあいべんてん.JPG


 「恋の願いごとを成就させたい」
 「幸せな結婚をしたい」
 「夫婦仲良く幸せにすごしたい」
と念ずる方は、どうぞ氷室神社に願掛けをしてください。

7月25日は、夏氷の日です、をご覧ください

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2009年07月26日

月下美人の花を食す

 昨日は月下美人の花が3輪咲いた。一昨日1輪咲いたので、今年になって4輪咲いたことになる。

 昨日は午後7時半頃には1輪が満開、1時間後の午後8時半頃にはあとの2輪も満開となった。例年より花が開き始めるのも、満開となるのも早い時間だ。いつもは夕方から匂いが漂ってきて午後9時前あたりから花が開き始めるのに、今年はもう満開になっている。

月下美人.JPG

月下美人3輪2.JPG


 今朝早く月下美人を見ると、3輪ともだらしなく垂れ下がっている。月下美人を観賞した後はいつも花を食べる。

 咲き終わった花を水にしばらくひたす。水に花をひたすのは、花びらをしゃきっとさせるためだ。花を水洗いするが、花粉はよく水で洗い流して、花びらとめしべ、おしべを取り出す。さっとゆがいて、三杯酢で食する。さっとゆがくとぬめりがでてくる。味はきわめて薄くぬめりがあるが、珍味ということでOKだ。

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2009年07月25日

7月25日は、夏氷の日です

 楽天ブログ メールマガジン 特別号 [2009_07_25]によれば、7月25日は、「夏氷の日」とのことです。夏氷とはカキ氷のことで、「な(7)つ(2)ご(5)おり」の語呂合わせの記念日ということになります。

 今は簡単にお家で氷を作ることができるようになりましたが、昔は電気もなく自然の力でできた氷を保存して利用してきました。

 神戸市夢野の地には氷室神社があります。夢野は、禁野(イミノ)といって、昔高貴な御方の墓所で殺生禁断の地でした。夢野には十数個の古墳があり、石棺や鏡、多くの器物が出土しており、貴族が居住がしていました。
 夢野の名は「摂津国風土記」にも出ていて、神戸の中心地でした。

 氷室神社由緒の「夢野の氷室」を引用させていただきます。

 仁徳天皇の六二年、天皇の兄の額田大中彦皇子が夢野で狩りをしたことがあった。
 額田大中彦皇子は応神天皇の子で、伯父の香坂皇子を悲しく思い、表向きは狩りとして香坂皇子墓参りに来たのでした。
 狩りの合間に小さな山に登った皇子が、広々とした夢野の原をながめていた。
「おや、野原のなかに、ぽつんと何か見えるぞ。小さな庵のようだが」
 調べてみると、それは何かいわくありげな洞窟であった。そこで、闘鶏稲置大山主(今の尊重にあたる。氷室神社社家先祖)という土地の古老を呼んで尋ねることになった。
「あれは、氷室でございます。あの岩屋なかは、いつも冷たくひえびえしております。それでこの土地の者は、冬の間に大きな氷を切り出し、あの岩屋の底の地面を一丈(約三メートル)ばかりも掘って、底に草を敷き、そこに氷を詰めますのじゃ。その上をたくさんの茅などでおおい、土をかけます。そして、氷を保存し、暑い季節になると、氷を掘出し、砕いて水や酒に入れて飲むのです。」
「それはめずらしい。よいことを聞いた。さっそく天皇に氷をさしあげよう。」
届けられた氷を食べた天皇は、とても喜ばれた。
こうして、毎年冬にこの氷室に納められた氷は、暑くなる頃、天皇に届けられるようになったという。

氷室神社.JPG
氷室神社

氷室.JPG
氷室神社の本国最祖氷室

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2009年07月24日

夏野菜の中でとりわけ美しい花

 「まあ、きれい!」という中年女性の声がよく聞こえる。夏の山田の里を歩いていると。山田の里は神戸市北区の西の方にある農村地帯だ。きゅうりやナスやトマトは畑で実をつけているから分かりやすいが、畑の中に大きな黄色で真中が濃い茶色の花が咲いているのは遠くからでもよく目に付く。「何の花かしら?」。

 畑に咲いている花はオクラの花で、トロロアオイによく似ている花で、ハイビスカスの仲間だ。野菜の花の中ではとりわけ美しい花だ。見るだけでも楽しめる夏野菜で、独特のネバネバとシャキシャキ感がある。

 夏野菜のオクラは、特有のネバネバは食物繊維の一種でペクチンやムチンを含んでいるのが特徴だ。効能としては、コレステロールを減らすことと消化促進があげられる。

 断面は五角形で緑色の実が主流だが、八角形や丸型、赤や黄色の実もある。

 夏野菜のナスについてはこちら ⇒ 綱敷天満宮には「なすのこしかけ」もあります、をご覧ください

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2009年07月23日

ビオフェルミンのとんだ効能

 平成21年7月21日(火)の日本経済新聞夕刊1面の「あすへの話題」に「英語上達の妙薬」という国際海洋法裁判所判事 柳井俊二さんの記事がある。

 英会話能力の低さを痛感して、大学で英語まで教えるようになったそうだ。
 英会話能力向上のための3つが書かれている。

 1つ目は、米国大統領の演説を丸暗記させ、皆の前で話させること。
 2つ目は、スタンダード・ジャズ数曲の歌詞を暗記すること。
 3つ目は、発音練習で、日本人の苦手な「R」と「L」の区別をすること。この区別するには秘策がある。それは「ビオフェルミン」1錠を舌に乗せてRと言う練習をすると、RとLを区別できるようになったそうだ。英語の発音は、「ビオフェルミン」1錠で治る!

 このビオフェルミンだが、大正6年(1917年)2月12日に株式会社神戸衛生実験所として設立され、乳酸菌整腸薬「ビオフェルミン」を製造したのが始まりの会社である。昭和24年(1949年)3月22日に商号をビオフェルミン製薬株式会社に変更し、現在は大阪証券取引所市場第一部に株式を上場している。平成20年(2008年)3月には、大正製薬株式会社による株式の公開買付けにより、同社の連結子会社となった。

 かつて湊川公園に神戸タワーという塔が建っていた。大正13年(1924年)に建てられ、高さが90mあり、東洋一の高さを誇っていたことがあった。この神戸タワーは昭和43年(1968年)に撤去されてしまい、今はその跡地に高さ8mのカリヨン時計塔が建っている。カリヨン時計塔の側面には、往時の神戸タワーの写真も飾られている。

 この神戸タワーの塔の壁面に長年「ビオフェルミン」の広告が掲げられていた。

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2009年07月22日

高塚山のキノコの写真:高塚山の森を歩こう会(11)

 落雷を伴う激しい雨の翌日(7月20日)に高塚山に行った。目的はキノコの写真を撮るためである。高塚山はおそらく管轄する神戸市の調査員を除いては、四半世紀は人手がほとんど入っていない雑木林である。蚊に刺されないように虫除けのスプレーをふりかけた後で、長袖のシャツに軍手、首にはタオルを巻き、蚊取り線香を腰にぶらさげたいでたちで高塚山に登る。雑木林の中は昨夜来の激しい雨で予想外に蒸し暑い。

 キノコは予想以上に多く、中には食べられるキノコもあるに違いないが、全くキノコの名前も知らないので、とにかく写真を撮る。近接撮影となるのできれいに撮ったつもりでも予想外にブレており、がっかりした写真がほとんどだった。

 キノコを探すのは簡単だった。山道の両側に色んなキノコが目に付くので探し回る必要もないからだ。斜面には白いキノコが群生していたり、直径40センチもあるような大きな傘のキノコもあった。見るからに毒キノコだと主張しているキノコもあるが、実際には毒キノコではなく美味らしいキノコもあるようだ。逆にシイタケやナメタケのように似ていて、食べても大丈夫そうに思えるキノコが実は猛毒のキノコだったりするから、どのキノコを食べれば良いのかは全く分からない。
 
 キノコの名前を知らないので、図書館で『兵庫のキノコ』という本を借りてきて調べれば簡単だ、と思ったが、撮った写真と本とを見比べてもよく分からない。やはりキノコの専門家の方と一緒に歩いて、メモしないといけないとつくづく思う。

 おそらくこのキノコに間違いないと思われるキノコの写真を少しアップします。

ハイイロオニタケ.JPG
ハイイロオニタケ

セイタカイグチ.JPG
セイタカイグチ

ニオイコベニタケ.JPG
ニオイコベニタケ

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2009年07月21日

新しい取引所FXの「大証FX」開設

 今日7月21日(火)、大阪証券取引所(大証)で新たな取引所FXの「大証FX」が開設された。すでに東京金融取引所が開設している「くりっく365」に続いて、取引所FXとしては2つ目となる。

 取引所FXに先行している店頭FXは、取引通貨ペアの豊富さとレバレッジにより圧倒的なシェアを有している。

 「大証FX」の一番の特徴は、「板」を用いたオークション(個別競争)方式を採用した約定の仕組みである。上下8本の注文状況等を板情報として公開する。株式取引で「板」を見ながらの売買に馴染みの深いトレーダーや投資家には、FXというより多く取引機会を得られることになる。

 店頭FXはFX取扱業者との相対取引で、取引所FXは今日開設した「大証FX」が大阪証券取引所取扱業者と、「くりっく365」では東京金融取引所取扱業者との取引となり、この違いが証拠金の保護の違いとなる。

 「大証FX」では取引通貨ペアは米ドル/日本円、ユーロ/日本円などの9通貨ペア、取引単位は1万通貨単位で、他のFX取引とは大きく異なっている。

 税制であるが、店頭FXが総合課税(所得により税率が異なる)であるのに対し、取引所FXは申告分離課税で、税率は一律20%で、商品先物や証券先物という取引所取引と損益通算ができ、損失した場合は3年間の繰越控除ができる。

 「大証FX」取扱業者は、現状次の6社である。
 インヴァスト証券、オリックス証券、光世証券、コスモ証券、そしあす証券、ひまわり証券

 十分にリスク管理をしてFX取引をしてください。

FX教材はたくさんありますが、ほとんどの投資家が儲からないのはなぜでしょう、をご覧ください
波に上手に乗る技法の「うねり取り」とは、をご覧ください

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2009年07月20日

波に上手に乗る技法の「うねり取り」とは

 今日7月20日は「海の日」です。

 海には波があります。波の動きである波動は自然界の法則そのものです。P波やS波の地震波、音波に超音波、電波や電磁波、衝撃波、長波に中波に短波に超短波、α波やβ波にθ波の脳波など色々な波があり、波形があります。

 海の波には白波や金波、銀波、小波、荒波、土用波などがあります。浮世の波や老いの波もあります。

 波にはうねりがつきものです。うねりを利用したスポーツにはサーフィンがあります。波に上手に乗るには技術がいります。

 株式売買にも波に上手に乗る技法の「うねり取り」があります。
 「うねり取り」とは銘柄固定売買方式で、約3ヵ月またはその整数倍の上げ下げを取って利益をあげるというやりかたです。

 具体的には、昨日の株価の終値を場帳に記入し、折れ線グラフを書いて、株価の動きを眺めるのです。折れ線グラフのタテの目盛は一円を一ミリとし、ヨコの目盛は一日二ミリ移動させます。これを毎日続けます。

 何のために、昨日の株価の終値を場帳に記入し、折れ線グラフを書くのかというと、約3ヵ月(60日周期)くらいの「うねり」に乗ることを目的とするからです。

 何故、約3ヵ月(60日周期)くらいの「うねり」に乗るのかというと、相場の上下の波(うねり)を平均すると、約3ヵ月(60日周期)くらいで経験的に転換しているからです。株には人気がつきものですから、絶対約3ヵ月だとは勿論断定できませんが。

 約3ヵ月くらいの波で売買するために、売買が非常にゆっくりになります。自分で取れそうな時に売買すればよいのです。常に売買する必要はないのです。

綱敷天満宮の波乗り祈願像に参拝して、時勢の波に乗り、夢を叶えましょう!、をご覧ください
綱敷天満宮には「なすのこしかけ」もあります、をご覧ください


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2009年07月19日

昭和20年8月20日早朝、甘粕正彦 青酸カリを仰ぐ

 『満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』講談社 太田尚樹

昭和12年(1937年)4月、甘粕正彦 協和会総務部長に就任(p.356)

 協和会は昭和8年(1933年)に創立された国策の宣伝機関で、発起人として本庄繁関東軍司令官、板垣征四郎・石原莞爾・片倉衷の関東軍参謀、オーケストラの指揮者小沢征爾の父小沢開作が名を連ねている。(p.356-357)

 戦後の中国残留孤児の問題は、満州への入植者を見捨てた関東軍に責任があるのはもちろんだが、そもそもの原因を作ったのは、石原莞爾だったのである。(p.361)

昭和13年(1938年)春、満州に来ていたキリスト教伝道者の賀川豊彦が、協和会の晩餐会に招待される(p.369)
 賀川豊彦は、若い頃大杉栄と親しかった(p.370)

昭和13年夏、満州国政府はヨーロッパへ親善使節を送る。満州国の承認をしてくれたイタリア、ドイツ、スペイン、エル・サルバドールへの答礼を兼ね、産業立国満州国を宣伝する経済ミッションである。(p.376)

甘粕正彦はこの訪欧使節団の副団長兼事務総長として、すべてを取り仕切る(p.377)
ベルリンのアメリカ大使館がビザの発給を拒否したため、エル・サルバドール行きは取り止めとなる(p.388)

昭和14年(1939年)3月22日、岸信介 満州国国務院総務庁次長に就任(p.398)
昭和14年10月、岸信介 日本へ戻る(p.421)
 岸が満州開発五ヵ年計画で育てた巨大な産業。
 第二松花江に築いた東洋一の規模を誇る豊満ダム、鴨緑江水電、露天掘りの撫順炭鉱、鞍山製鉄所、満重、昭和製鋼所、満州浅野セメント、満州住友金属、満州沖電気など、直接、間接に岸が育てた施設や工場が目白押しである。もちろん日本から移転させたものも少なくないが、満州の地を実験台にした将来の産業立国日本の礎は、しっかりと根を張り、実を結んだのである。(p.424-425)

昭和14年秋、甘粕正彦 満映理事長に就任(p.402)
 甘粕は協和会総務部長時代から引き続き、新京駅前のヤマトホテルのスイート・ルーム二〇二号室で起居していた(p.406)

昭和17年(1942年)「迎春花」と昭和18年(1943年)「私の鶯」を李香蘭主演で制作(p.413)

昭和20年8月20日早朝、甘粕正彦 青酸カリを仰ぐ。享年五十四(p.461)

甘粕が言ったと伝えられる話「日本軍にはビジネス思考がなかったですね。士官学校の教育に、経済学を取り入れるべきでした」(p.385)

甘粕曰く「責任逃れの仕方を覚える、官吏型の軍人を大勢作ってしまった士官学校の教育には、問題があります。軍事学と、命令系統の仕組みを基本にした法律の勉強ばかりさせた弊害です」(p.436)

指揮者小沢征爾の父はコピーライターだった、をご覧ください
李香蘭という女優をご存知でしょうか、をご覧ください
2つの国策映画会社、をご覧ください

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2009年07月18日

高塚山の森を歩こう会(10):小束山の地名

 高塚山には高塚山古墳群があった。高塚山には「塚」の字があるが、その名の通り確かに総数15墓のお墓が確認されている。元々高い所にお墓を造ったのだが、中にはさらに盛り土をしてお墓を造ったものもあるかもしれない。

 高塚山の南には五色塚古墳があるが、五色塚の中に「塚」の字がある。この古墳は明石海峡を望む高台に盛り土と古墳の表面に石を貼り付けて造った兵庫県下最大の前方後円墳だ。

 近くを見ると大歳山遺跡公園がある。ここで縄文人の土器を発見したのは、明石原人を発見した直良信夫という人物である。この直良信夫をモデルとして松本清張の『石の骨』という短編小説が書かれたそうだ。

 高塚山と五色塚古墳の間に舞子陵がある。舞子陵の中に舞子墓園があり、舞子墓園は宗派毎に区画された神戸市民のためのお墓であるが、この舞子陵からは石室がいくつか発見されている。

 高塚山と舞子陵の間には小束山という地名がある。「コツカヤマ」と読むが、「塚」とは違うが「ツカ」と読む「束」という字があてられている。明治以降の地図には「小束山」という表記しか見当たらないが、元来は「塚」だったのをお墓の上で生活するのは都合が悪いということで「塚」から「束」に変えたということはないだろうか。

 生まれてまもなく亡くなったり、幼少期の栄養失調やかかった病気が元で亡くなった「小さき者たち」のあちこちの集落にあったお墓(「塚」)をまとめたものが、「小束山」ではないだろうか。
 「小さき者たち」を地域で供養するための地名が「小束山」なのではと思われるが。

高塚山の森を歩こう会(5)、をご覧ください

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2009年07月17日

明治32年7月17日、神戸居留地が返還されました

 安政五年(1858年)に「日米修好通商条約」が締結されました。その条約の内容には、領事裁判権の設定=治外法権、関税自主権の放棄という、日本にとって不利な、不平等条約でした。アメリカに続いて、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約が締結されました。

 この不平等条約では、開港場に外国人の居留及び交易区域として特に定めた一定地域、即ち居留地を設置することが決められました。

 この条約に基いて、安政六年(1859年)、神奈川(横浜)、長崎、箱館(函館)の3つの港が開港されました。横浜港は、今年開港150周年を迎えました。

 この同じ条約に基いて、兵庫(神戸)港は当初の開港より遅れて、慶応三年十二月七日(1868年1月1日)に開港しました。昨年は神戸開港140周年でした。

 長崎では明治9年(1876年)に、横浜では明治10年(1877年)に居留地の返還が行われましたが、神戸など他の開港場は引き続き条約改正により明治32年(1899年)に廃止されるまで存続しました。

 幕末に締結された「日米修好通商条約」をはじめとする「安政五カ国条約」は、日本にとって著しく不利な治外法権と関税自主権の放棄が規定されていましたので、明治政府はこの不平等条約を改正するため、必死の国内政策や外交政策を行ってきました。

 明治27年(1894年)7月になって、ようやく治外法権の撤廃等の内容を持つ「日英通商条約」が締結されることになりました。その後、他の国とも同様の条約を締結しました。

 そして、明治32年7月17日に不平等条約の改正が発効し、居留地が返還されることになりました。

 しかし、関税自主権の回復は明治44年(1911年)になるまで実現はしませんでした。また、永代借地権を既得権とする欧州諸外国の横暴は引き続きましたが、昭和17年(1942年)4月1日にようやく永代借地権が消滅することが確認されることになりました。

<<参考文献>> 『神戸居留地の3/4世紀』神木哲男・崎山昌廣編著 神戸新聞総合出版センター 1993年 

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2009年07月16日

神戸南京町の構図

 神戸中華街は南京町と称され、観光スポットとして有名です。
 この南京町は、JR・阪神元町駅南側(浜側)にあり、元町通と栄町通とにはさまれた東西約270m、南北約110mのエリアです。

 この南京町の構図は、中心に南京町広場があります。南京町広場は南京東路と南京西路、南京南路と南京北路の交点にあります。この4つの路により、4つの街区に分かれています。

南京北路と南京東路で区画された所は紅龍街区、
南京東路と南京南路で区画された所は緑龍街区、
南京南路と南京西路で区画された所は紫龍街区、
南京西路と南京北路で区画された所は青龍街区、となります。

 鯉川筋に面している南京東路の入口にあるのが長安門、南京西路の入口にあるのが西安門、栄町通に面している南京南路の入口にあるのが海榮門です。

 7月17日オープンのホテル東急ビズフォート神戸元町は、この長安門の横にあるホテルです。

 あの豚まんで超有名な創業大正四年のお店、老祥記は南京町広場の向かいで、青龍街区にあります。

 元町通は西国街道だった所で、各丁目に応じた「すずらん灯」があります。

2009年7月17日、ホテル東急ビズフォート神戸元町オープン、をご覧ください
スズラン 〜すずらん灯の西国街道〜 、をご覧ください

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2009年07月15日

2009年7月17日、ホテル東急ビズフォート神戸元町オープン!

 7月17日、神戸中華街(南京町)のメインゲート“長安門”横に、ホテル東急ビズフォート神戸元町が誕生します。

 ホテル東急ビズフォート神戸元町は、JR・阪神元町駅から浜側へ徒歩3分のところにあります。
JR・阪神元町駅からホテル東急ビズフォート神戸元町への道は、鯉川筋と呼ばれ、今は暗渠となっています。このホテル東急ビズフォート神戸元町からさらに浜側に行くと、レトロなビルの神戸郵船ビルがあり、メリケンパークになります。

 神戸郵船ビルは、日本郵船神戸支店として建てられたビルで、その前はここにアメリカ領事館がありました。「メリケン」とは「アメリカン」のことで、アメリカ領事館のすぐそばに波止場があったことから、メリケン波止場と名付けられました。

 このホテル東急ビズフォート神戸元町から逆に山側に行くと、今年6月3日にオープンした神戸市立海外移住と文化の交流センターがあります。

 ホテル東急ビズフォート神戸元町の向かいには、大丸神戸店があります。近くには、三宮の地名の元となった三宮神社があります。ここには兵庫開港間もない頃起こった神戸事件の史跡があります。

今年6月3日にオープンした神戸市立海外移住と文化の交流センターとは?、をご覧ください
神戸事件、をご覧ください
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2009年07月14日

綱敷天満宮には「なすのこしかけ」もあります

なすのこしかけ.JPG


 前回、「綱敷天満宮の波乗り祈願像に参拝して、時勢の波に乗り、夢を叶えましょう!」で、波乗り祈願像を紹介しましたが、今回は「なすのこしかけ」を紹介しましょう。

 「なすのこしかけ」は拝殿左手の「吽」の狛犬前にあります。「なす」のこしかけ、という案内板もあります。ここには次のように書かれています。

 願いをかなえる「なすのこしかけ」

「なす」の花はひとつの無駄もなく実を結び、また「成す」と語呂が同じ処より、努力はむくわれ、願いがかなえられるという縁起をふくみます。
「なす」に腰かけ、本殿に向かって願いを込めれば、どんな願いも叶えられます。

 セルフイメージを高めることで、想いを実現させようということでしょうか。
 ただ想っているだけではダメで、「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」ということです。

 ナスは、夏野菜の一つです。

 ナスの特徴は、成分のほとんどが水分ですが、ビタミンやカルシウム、鉄分などのミネラルや食物繊維、それにポリフェノールも含んでいます。

 ナスの効能としては、体を冷やす効果、がんの予防効果、体の老化を防ぐ、ことがあげられます。

 綱敷天満宮の「なす」に腰かけ、願いを込めた後で、ナスを食べて、暑い夏と人生を乗り切りましょう!



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2009年07月13日

満州国での岸信介:東条英機の仲介で岸信介が甘粕正彦と会う


満州裏史―甘粕正彦と岸信介が背負ったもの

満州裏史―甘粕正彦と岸信介が背負ったもの

  • 作者: 太田 尚樹
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2005/11
  • メディア: 単行本




 ★★満州国産業開発五ヵ年計画立案の中心になっていた岸信介は、その計画の実施を任され満州に乗り込む。(p.269)★★

●岸信介 渡満前の情勢
 昭和6年(1931年)9月18日、柳条湖付近の満鉄線爆破される(満州事変)(p.199)
昭和7年(1932年)1月18日、日本人僧侶殺傷事件
 昭和7年(1932年)1月〜3月、第一次上海事変。中国の上海国際共同租界周辺で起きた日華両軍が衝突する
 昭和7年(1932年)10月2日、リットン調査団が報告書を公表する
 昭和8年(1933年)3月、日本は国際連盟を脱退
 昭和9年(1934年)から昭和18年(1943年)まで大連−ハルピン間を結ぶ特急列車あじあ号が運行する(p.292)
 昭和10年(1935年)8月、松岡洋祐が満鉄総裁として着任する(昭和14年2月まで)

●渡満前の岸信介の年譜
 昭和8年(1933年)2月、商工大臣官房文書課長
 昭和10年(1935年)1月、対満事務局事務官被仰付
  その後、臨時産業合理局第二部長、同第一部長を経て
 昭和10年(1935年)4月、商工省工務局長に就任(p.268)
   **対満事務局は、満州国産業開発五ヵ年計画立案の中枢となる部署
  
●満州国での岸信介
 昭和11年(1936年)10月、満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満(p.269)
  岸信介、赴任当時の関東軍は、植田謙吉司令官(大将)、参謀長板垣征四郎、憲兵司令官東条英機(昭和10年9月〜昭和12年2月)(p.318)
着任早々、東条英機の仲介で、岸信介が甘粕正彦と会う(p.269)
  **甘粕正彦は、24期生として、東京市谷の陸軍士官学校の門を潜り、東条英機中尉(後に首相となる)は陸士教官で、甘粕は東条英機中尉に気に入られていた(p.52-53)

 岸信介、甘粕正彦に曰く「満州の産業がさっぱり育たないのはですよ、あれは軍人が威張り過ぎているからです。これでは財界がそっぽを向いてしまうのも、無理はありませんな。そこでですよ、私は軍人から産業行政を取り上げて、自分の手で育てるつもりで、乗り込んできました。それには甘粕さん、あなたの力をお借りしたい」(p.18)

 昭和12年(1937年)3月、東条英機 関東軍参謀長に就任(昭和13年5月まで)(p.351)
 昭和12年(1937年)7月、岸信介 産業部次長に、満州国経営に辣腕を振るう

 昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋事件
 昭和12年(1937年)7月、満州中央銀行が設立される
昭和12年(1937年)12月、鮎川義介が日産コンツェルンの持株会社である日本産業株式会社を、満州国首都・新京に移駐・改組して満州重工業開発株式会社を設立。当初資本金4億5千万円は日産が半分、残りは満州国政府が引き受ける

 昭和14年(1939年)3月、岸信介 総務庁次長に就任

 昭和14年(1939年)5月、ノモンハン事件(1939年5月11日から同年9月16日)

満州での甘粕正彦、をご覧ください


満州裏史―甘粕正彦と岸信介が背負ったもの

満州裏史―甘粕正彦と岸信介が背負ったもの

  • 作者: 太田 尚樹
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2005/11
  • メディア: 単行本



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2009年07月12日

満州での甘粕正彦

『満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』講談社 太田尚樹

★★内地には身の置き場所がなかった甘粕正彦は、家族連れで満州にやってくる。★★

 昭和3年(1928年)10月、石原莞爾が旅順の関東軍司令部に着任する(p.163)
 昭和4年(1929年)、板垣征四郎が関東軍高級参謀として着任する(p.163)

 昭和4年(1929年)秋、甘粕正彦は家族連れで奉天(現瀋陽)にやってくる。甘粕事件または大杉事件で内地には身の置き場所がなかった。(p.158-159)
 甘粕正彦 満州事変の主役となる関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、作戦主任参謀石原莞爾中佐と頻繁に接触する(p.161)

 昭和6年(1931年)6月、中村震太郎大尉事件が起きる。中村大尉と道案内に同行していた日本人、ロシア人、蒙古人の四人全員が、張学良の正規軍に殺害された事件(p.192)

 昭和6年9月18日、柳条湖付近の満鉄線爆破される(満州事変)(p.199)

 昭和6年10月下旬、甘粕正彦 溥儀に満州国元首の話をもちかける(p.228) 
 溥儀:大正13年(1924年)11月5日、北京で起きたクーデターで紫禁城を追われた清朝最後の皇帝
 昭和6年11月2日、溥儀が満州行きを正式に伝える(p.233)
 昭和6年11月19日、甘粕正彦 溥儀に旅順行きを伝える。溥儀、無事に満州の地に足を踏み入れる(p.238)
 昭和7年(1932年)3月1日、満洲国の建国宣言。首都には長春が選ばれ、新京と改名される。元首として清朝最後の皇帝溥儀が満洲国執政として即位する
 昭和7年3月9日、満州国建国の式典(p.248)
 
 昭和7年2月9日、井上準之助蔵相が血盟団に暗殺される
 昭和7年2月29日、リットン調査団が日本に着く
 昭和7年3月5日、三井財閥の総帥團琢磨が血盟団に暗殺される
 昭和7年4月、甘粕正彦 在満中のリットン調査団一行の護衛のため、満州国民政部警務司長を拝命する(p.254)
 昭和7年4月20日、リットン調査団一行が満州入り
 昭和7年5月5日、犬養首相が海軍将校の凶弾に倒れる(五・一五事件)
 昭和7年10月2日、リットン調査団が報告書を公表する

 昭和8年(1933年)3月、日本は国際連盟を脱退

 「謀略は、そもそも中心人物の痕跡を残さないからこそ謀略なのです。そのことを甘粕は言いたかったはずです」(p.241)

甘粕事件:大杉栄と甘粕正彦との不思議な縁、をご覧ください

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