2009年06月30日

指揮者小沢征爾の父はコピーライターだった

 『満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』講談社 太田尚樹

 今回もこの本より、個人的興味や関心から気になる箇所を取り上げてみることにする。

 194ページに次のような記述がある。
 「この「五族協和」「王道楽土」の二つの謳い文句は、オーケストラの指揮者小沢征爾の父、開作の造語だそうである。
 そのころ、奉天(現瀋陽)に居を構えていた小沢開作の本業は歯科医だが、名前からしても満州にピッタリするような男だった。事実、相当の国士で、関東軍の参謀連中とも交流があり、とくに、板垣、石原と親しくしていた。
 この二人が小沢開作の作った「五族協和」「王道楽土」の文句を気に入り、「うん、これで行こうじゃないか」ということになり、内地でも宣伝され、広く知られるようになった。今ならさしずめ、「流行語大賞」間違いなしというところだが、この話にはもう一つ落ちが付く。
 息子の小沢征爾は1935年(昭和10年)、奉天生まれだから、満州事変から四年後のことになるが、ちょうど開作が板垣、石原と居合わせたところに、男児誕生の知らせが届いた。
 そこでハタと膝を叩いた開作は、目の前のふたりに向かって「あなた方から一字ずつを貰い受けますよ」ということで、征爾と名付けたのだそうである。」

 世界的な名指揮者小沢征爾の父、小沢開作は歯科医であって、コピーライターではなかったが、キャッチコピーに長けた人であることには違いはないだろう。
 
 「五族協和」の「五族」とは、日本人、満州人、漢人、朝鮮人、蒙古人の五族のことだが、実際には満州国建国を記念して設立された建国大学には、白系ロシア人もいて、六民族そろって寄宿舎生活をしている(p.362)ので、「五族協和」ではなく「六族協和」なのかもしれないが、奇数が好きで桜や梅を好む日本人には「六」より「五」の方が通りが良かったのだろう。

 ハルピンは帝政ロシアの前線基地であり、ロシア正教聖堂が立ち並ぶ町で、横浜正金銀行や香港上海銀行、ナショナル・バンク・オブ・ニューヨークなどの国際的な金融機関もあり、ロシア人が闊歩していた。

 小沢征爾が一字ずつを貰い受けたのは、板垣征四郎と石原莞爾からだ。
 
 昭和6年9月18日、関東軍による奉天(現瀋陽)郊外柳条湖付近の満鉄線を爆破した事件(満州事変)が起こるが、その首謀者が板垣征四郎と石原莞爾だ。

 板垣征四郎と石原莞爾も仙台陸軍地方幼年学校で学び、板垣征四郎は第一次近衛内閣で陸相に就任し、平沼内閣でも陸相を務めるが、戦後東京裁判にて死刑判決を受け、靖国神社に合祀されている。
 石原莞爾は関東軍参謀長東条英機と対立し、左遷され、その後現役を退き、昭和16年立命館大学講師となる。

甘粕事件:大杉栄と甘粕正彦との不思議な縁、をご覧ください

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2009年06月29日

甘粕事件:大杉栄と甘粕正彦との不思議な縁

 『満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』講談社 太田尚樹

 この本を読もうという気になったのは、あの甘粕事件あるいは大杉事件と呼ばれる事件の核心人物の鬼憲兵甘粕正彦が、昭和14年11月、満映(満州映画協会)の2代目理事長になったのは、満映の映画制作の実績が上がらなかったため、満州国国務院が甘粕正彦を理事長に据えて満映の改革に送り出されたとされているが、その甘粕正彦を満映に送り出した人物が岸信介だ、という記述をどこかで見たことがあるので、きっとこの本にはその経緯が書かれているに違いない、と思ったからだ。

 過日、甲南漬資料館に行ったのは、岸信介が満州で仕事をしていたのはいつだったかを知りたくてであった。

 この本は文字通り裏史を詳細に調べて書かれており、人脈なり、人間関係がよく分かる。個人的興味や関心から気になる箇所を少し取り上げてみることにする。

 142ページに次のような記述がある。
 「そういえば四年半前、同じ(フランスのこと)航路を行った大杉栄。そして行き先も同じパリであった。名古屋地方幼年学校でも先輩だったし、さらに労働運動で千葉刑務所にも入獄していたことのある大杉は、いわばそこでも先輩に当たるから、これは縁に違いない。」

 これは「(十一)旅立ち」の中の一節である。旅立ちとは、千葉刑務所出獄後、結婚し、フランスに行くことであるが、本当に縁というか皮肉というか人生とは怖いものである。

甘粕正彦 明治24年(1891年)1月、仙台市に生まれる (p.48)
甘粕正彦 明治38年(1905年)、名古屋地方幼年学校に入校 (p.51)

大杉栄  明治18年(1885年)1月17日 、香川県丸亀で生まれる
大杉栄  明治32年(1899年)、名古屋地方幼年学校入学
大杉栄  明治34年(1901年)11月、名古屋地方幼年学校の退校処分を受ける (p.52)

甘粕正彦 24期生として、東京市谷の陸軍士官学校の門を潜る (p.52)
     陸士教官の東条英機中尉(後に首相となる)に甘粕は気に入られる (p.53)
甘粕正彦 明治45年5月、陸士を卒業して、津市にある歩兵第五十一連隊第八中隊付きの見習士官となる (p.53-54)
     陸軍戸山学校入校後、乗馬訓練中に落馬して膝を大怪我する (p.55-56)
甘粕正彦 大正7年(1918年)7月、陸軍憲兵中尉となる (p.58)
     大正11年1月、渋谷憲兵分隊長になる (p.62)
     大正12年8月27日、麹町憲兵分隊長代理を兼任 (p.62)

大杉栄  フランス政府から国外追放処分を受け、日本郵船の客船箱根丸で、大正12年7月11日、神戸港に着く (p.69)
大正12年9月1日、関東大震災 (p.71)
大正12年9月15日、憲兵隊大杉栄の居所を掴む (p.82)
大正12年9月16日、大杉栄、伊藤野枝、橘宗一(大杉栄の妹橘あやめの息子)、憲兵隊に連行される。(p.88) 憲兵司令部の応接室で大杉栄殺害される (p.93)

甘粕正彦 大正12年12月、判決後千葉刑務所に送られる (p.100)
大杉栄  労働運動で千葉刑務所に入獄する (p.142)

甘粕正彦 大正15年10月9日、2年10ヶ月ぶりに千葉刑務所から出獄する (p.127)

 岸信介と甘粕正彦との出会いは次の機会にする。

李香蘭という女優をご存知でしょうか、をご覧ください
2つの国策映画会社、をご覧ください
60年安保時の首相岸信介の昭和12年満州 、をご覧ください

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2009年06月28日

神戸アンサンブルソロイスツ第19回定期演奏会

 神戸アンサンブルソロイスツ第19回定期演奏会を聴きにいく。今回の演奏会は、会場を今までの神戸市立灘区民ホール マリーホールから、昨年1月21日にオープンした神戸芸術センター芸術劇場で行われた。今回のテーマは「二人の“B”BB」だ。Bで始まる作曲家は多いが、今回の二人のBとはベートーベンとブラームスのことだ。

 演奏曲目は、
1曲目:序曲「コリオラン」 ハ短調 L・V・ベートーヴェン
2曲目:交響曲 第7番イ長調 L・V・ベートーヴェン
3曲目:ピアノ協奏曲 第2番変ロ長調 J・ブラームス
の3曲である

 序曲「コリオラン」は久しぶりに聴く曲だ。ベートーベンは交響曲第3・5・6・7・9番とピアノソナタを聴きにいくことが多いので、「レオノーレ」以来の曲だ。

 ベートーベンの交響曲第7番は最も好きな交響曲の一つだ。中でもブロムシュテット指揮のN響の演奏が最も良かった。テレビドラマのおかげであまりにも有名になりすぎてしまった。第2楽章のテンポが速くかなりの違和感を感じた演奏だった。速めの演奏の意図を知りたい。

 ピアノ協奏曲のソリストは後藤有以子さんだ。後藤有以子さんは神戸アンサンブルソロイスツ団員のビオラ奏者なのだが、最近はピアノ中心のアンサンブル活動に精力的に演奏しているそうだ。ビオラ奏者がピアノ協奏曲のソリストとして演奏するというのは、非常に珍しいどころか前代未聞のことだと思う。

 今回の演奏会も指揮者の高橋義人さんからの招待状で聴きにいったものだ。いつも躍動感あふれる力強い指揮ぶりがいい。聴きにいくのは、高橋さんの躍動感にあふれる指揮を見に行くといった方が正しいだろう。高橋さんの現職は、神戸市立葺合高校の理科と情報教諭だ。

 なお、新神戸駅の近くにある神戸芸術センター芸術劇場のあるビルの最上階(37階)は3億円を超える分譲マンションで話題となった。

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伊藤公銅像の絵葉書をアップします

 「伊藤公銅像台座はどこにある?」で神戸の大倉山公園の片隅に目立たないように立派な石の造形物が置かれてあることを紹介しました。

 伊藤博文公銅像が大倉山公園の眺望の良い所に建っている絵葉書を入手しましたので、アップします。
絵葉書のタイトルは「(神戸名勝)大倉山公園伊藤公銅像と忠魂碑」です。
 絵葉書には「大楠公六百年祭」のスタンプが押されていますが、大楠公とは勿論楠正成のことです。「大楠公六百年祭」は昭和10年(1935年)に記念祭として開催されました。

ydhpf964-img600x400-1240911976jy3li248352:伊藤博文銅像.jpg


伊藤公銅像台座はどこにある?、をご覧ください

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2009年06月26日

株主総会の事業報告の楽しみ方

 今日6月26日は株主総会集中日で、開催した企業は1321社らしい。今週の6月23日に続いて今日も株主総会に出席した。

 今日株主総会に出席した会社とは、上場企業の個人大株主や貯徳塾で有名な竹田和平さんが大株主の【商業】欄に記載されている株式会社だ。

 2年前の株主総会では多くのにわか個人株主がたくさん出席して質問も多かったが、出席した2社とも用意された椅子はあまりうまらず質問も少ないという全く盛り上がりのない株主総会だった。

 株主総会前には、「定時株主総会招集ご通知」が必ず届く。添付書類として「事業報告」がある。この「事業報告」の「企業集団の現況に関する事項」の始めの部分を5社ほど掲げてみたい。事業環境の悪化に対する企業の姿勢や取り組みの違いがよく分かる。

★★I社(商業):竹田和平さんが大株主★★ ←株主総会に出席した会社
 当連結会計年度におけるわが国経済は、米国のサブプライムローン問題に端を発した世界的な金融危機、それに伴う株式・為替・商品市場の急激な変動などにより、企業業績や雇用の悪化が顕著となり、所得の低迷に起因する個人消費の落ち込みなどにより、景気は急速に悪化してまいりました。

★★I社(機械):特設注意市場銘柄第1号指定だった会社★★
 当期のわが国経済は、先進国を中心とする世界経済の減速を反映した輸出の鈍化や、エネルギー・原材料価格の高騰による所得形成の弱まりから、停滞を余儀なくされました。また、9月半ばの米大手投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻を契機とした金融危機によって、新興国を含む世界経済が急減速したことから、輸出と生産が急落し、雇用と設備の過剰感が急速に高まって、深刻な景気後退局面に陥りました。

★★Y社(情報)★★
 当連結会計年度においては、金融市場の混乱などに起因して世界経済が下半期に急速に悪化し、日本国内でも企業収益が悪化するなど景気後退が深刻な局面を迎えております。その影響は広告市場においても見られ、株式会社電通の発表によると、平成20年の年間の広告費は前年比4.7%減少、媒体別ではテレビ、新聞、雑誌、ラジオの広告費が4年連続して減少しております。

★★S社(電気機器):P社に買収される★★
 当期の経済環境は、期前半は総じて堅調に推移しましたが、期後半には、米国のサブプライムローン問題に端を発した金融市場の混乱が実体経済にも波及し、想定以上のスピードで景気が悪化するなど、世界同時不況の様相を呈してきました。
 エレクトロニクス業界も、企業の設備投資抑制や消費の急激な冷え込みなどにより、期後半は深刻な販売不振となり、大規模な生産調整や一層の構造改革を余儀なくされるなど、極めて厳しい状況で推移しました。

★★N社(サービス):30万円の花の写真の会社★★
 当連結会計年度の事業環境は、ヘルスケア事業分野では、5月に「介護従事者などの処遇改善に向けた関連法」が可決されて以降、介護職員の処遇改善や人材確保に向けた数々の施策が検討され、12月には介護保険制度創設以来初となる介護報酬3%引き上げが決定した他、政府目標に沿って各地方自治体による職業訓練、介護関連資格の取得支援策が実施される等、大きな転換期を迎えました。

30万円の花の写真をアップしました、をご覧ください

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2009年06月25日

ブラジル政府から勲章を贈られた日本人

 昭和10年(1935年)にブラジル政府からブラジルコメンダトール勲章を贈られた日本人がいる。

 今年6月3日にオープンした神戸市立海外移住と文化の交流センターは、昭和3年(1928年)3月に開設された「国立移民収容所」が、新たな多文化共生の拠点として整備されて「海外移住と文化の交流センター」としてオープンしたものだった。

 ブラジル第1回移民として781名が笠戸丸で明治41年(1908年)4月28日に神戸港から出港し、ブラジルのサントス港に着いたのは、明治41年(1908年)6月18日だった。このサントス港に着いた日を、ブラジルの日系人が「移民の日」として記念し、この日を「海外移住の日」とするようになった。

 戦前戦後約25万人の方々が、ここ「国立移民収容所」で新天地に向けての最終的な心の準備をして、神戸港からブラジルを始めとする南米諸国に移住したのだった。新天地は決して希望あふれる土地というわけではなく、厳しい現実を突きつけられる土地であった。

 昭和2年(1927年)の金融恐慌や昭和4年(1929年)の世界恐慌に端を発する昭和恐慌で、農村部では人口過剰が問題となり、多くの日本人がブラジルに移住した。ブラジルでは排日運動が強まり、昭和9年(1934年)には移民を大幅に制限する新憲法ができた。

 険悪になった日伯両国の関係を改善し、移住の道を引き続き確保するために、昭和10年(1935年)に日本の経済使節団がブラジルを訪問した。この時の経済使節団長が、平生釟三郎である。平生釟三郎とは、甲南学園と甲南病院の創立者であり、多くの損害保険会社の重役を歴任し、川崎造船所(現川崎重工業)の社長を歴任し、広田弘毅内閣で文部大臣を任ぜられたその人である。

 日本の経済使節団は、日本がブラジル産綿花を大量に買い付けることを約束する。ブラジルから日本への綿花の輸出量の急増にともない、ブラジル経済も潤うことになり、両国の緊張関係は氷解する。移民制限策は運用面で緩和され、コーヒー価格の暴落で苦境にあった日本人移民の綿花生産も飛躍的に増大した。こうして、当時の花形輸出産業であった紡績業の原料生産を同胞が担うことになる。

 昭和11年(1936年)には、ブラジルの経済使節団が訪日し、その後文化交流も進み、その結果、激しい排日運動も収まることになる。

 移民の大幅制限を始めたブラジルに対し、経済的貢献により移住を確保しようとして、両国関係を改善、移民制限を緩和させた功績に対し、昭和10年日本の経済使節団の団長たる平生釟三郎は、ブラジル政府からブラジルコメンダトール勲章を贈られたのである。

<<参考資料>>
日本経済新聞 平成20年(2008年)6月2日 文化:移民救った天衣無縫さ ◇実業家・平生釟三郎、排日下でブラジルとの関係を改善◇ 栗田政彦(くりた・まさひこ=栗田工業監査役)

今日6月18日は、海外移住の日、をご覧ください
度肝を抜かれた広告、をご覧ください
日本の海上保険と火災保険思想の第一人者 平生釟三郎、をご覧ください

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2009年06月24日

日本の海上保険と火災保険思想の第一人者 平生釟三郎

 甲南学園と甲南病院の創立者 平生釟三郎のことを前回ご紹介した。今回は、教育者としての平生釟三郎ではなく、実業家としての平生釟三郎のことをご紹介したい。

 ここに昭和2年(1927年)10月、神戸又新日報社発行の『兵庫縣銘鑑』がある。288頁に「平生釟三郎」の記述がある。それを引用させていただく。

      平生釟三郎
住 所  武庫郡住吉村五三
電 話  御影二四〇番
出生地  岐阜縣
生年月日 慶応二年五月
現職及関係事業 東京海上、大正海上、扶桑海上、明治、大福、豊国各火災保険株式会社取締役
家 族  (中略)
経 歴  岐阜縣士族田中時言の三男にして先代忠辰の養子と為り明治二十三年東京高等商業学校を卒業して前記各会社に関係し一二社の専務取締役と為りたることあり保険界に其名聞ゆ大正八年家督を相続す。

 東京高等商業学校とは、現一橋大学のことである。
 明治33年(1900年)3月から東京海上保険(東京海上火災を経て現東京海上日動火災保険株式会社)の大阪・神戸の両支店長をされた。東京海上保険は蜂須賀茂韶や毛利元徳、徳川慶勝らの華族と岩崎弥太郎らによって明治12年(1879年)に創立されたわが国最初の海上保険会社だ。

 大正12年(1923年)12月末時点では、東京海上保険の取締役、大正海上火災保険(現三井住友海上火災保険)の専務取締役であった。三菱系と三井系の役員を兼ねるというのは、現在では考えられないことだが、海上保険と火災保険思想の普及第一人者であるからこそのことだと言えるでしょう。

 『兵庫縣銘鑑』に記述されている6損害保険会社の取締役の時期だが、大正14年(1925年)12月末時点では記述通りで、昭和元年(1926年)12月末時点では、扶桑海上火災保険では取締役会長であり、他の5つの損害保険会社では取締役である。

 明治29年(1896年)10月、資本金90千万円で設立された株式会社川崎造船所(現川崎重工業)の初代社長は松方幸次郎だ。昭和2年(1927年)の金融恐慌で川崎造船所の主要取引銀行の十五銀行が4月に臨時休業に入ったことにより、川崎造船所の経営危機が表面化し、その責任を取り、松方幸次郎社長が退任し、後任(2代目社長)として鹿島房次郎が就任する。鹿島房次郎は、第5代・第6代神戸市長で、在任期間は明治43年(1910年)2月〜大正9年(1920年)10月、である。鹿島房次郎は社長在任期間中の昭和7年(1932年)に死去する。その後、昭和8年(1933年)3月24日、甲南学園理事長で川崎造船所整理委員の平生釟三郎が川崎造船所3代目社長となった。

 昭和7年(1932年)は満洲国建国の年であり、昭和8年(1933年)、日本は国際連盟から脱退、翌昭和9年にワシントン海軍軍縮条約を破棄する。

度肝を抜かれた広告、をご覧ください

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2009年06月23日

度肝を抜かれた広告

 2009年(平成21年)4月18日(土)、日本経済新聞夕刊全10面のうち、2面が全面広告で合計すると3面を超える広告をうったところがあった。

 広告主は、学校法人甲南学園であった。それは「甲南学園創立90周年記念」を本年4月に迎えたことを告知するとともに、これからの未来へ、世界へさらに飛び立とうとする決意を表明する広告だった。

 甲南学園は、1919年(大正8年)に開校された甲南中学校に端を発しており、創立者は平生釟三郎である。
 学校法人甲南学園は、甲南大学、甲南高等学校、甲南中学校、フランス甲南学園トゥレーヌ高等部で構成され、神戸市東灘区岡本に所在する。

 この新聞広告では、1919年(大正8年)に開校された甲南中学校を創立年としているが、実は前史がある。それは1910年(明治43年)甲南幼稚園を設立、その後甲南小学校も設立しているからだ。甲南中学校開校を創立年とするのは、中学校、高等学校を通じて「人格教育」という創立者の理想の教育ができる基礎と考えたからだと思われる。

 また、1934年(昭和9年)6月には平生釟三郎は甲南病院も創立している。
 甲南病院には「甲南病院創設者」平生釟三郎の胸像があり、台座の前には「創立者 平生釟三郎のことば」がある。ここにそれを記す(折り返しは無視する)。

平生釟三郎胸像.jpg

甲南病院創設者のことば.jpg


       創立者 平生釟三郎のことば
                 昭和9年6月17日
 人類の生存を脅かし、幸福を覆えすものの一つに病気があります。
 病気は何人も避けることのできないものであるだけに、病みて十分の治療を受けられる病院が必要であります。
 ここに我々は、人間愛の精神に基き、共存共栄互に助け合って行きたいものと考え、あらゆる点において病人を本位とした「悩める病人のための病院たらん」ことを切望し甲南病院を設立したものであります。

 創立者の平生釟三郎は、1936年(昭和11年)3月広田弘毅内閣で文部大臣に任ぜられている人物である。平生釟三郎は教育者の顔とは別に実業家としての顔ももっているが、後日にしよう。 

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2009年06月22日

ひったくりにご用心:バッグを車道側に持たず、バックに気を配り、バイクに注意する

 「手っ取り早くお金を手に入れられるから」という短絡的な動機から、ひったくりに安易に走ることが今年に入って増えているという。

 神奈川県警大和署では「ひったくり犯人が語る 〜防止8カ条〜」という防犯チラシを作って駅などで配って、ひったくり防止への取り組みをしているそうだ。

 「ひったくり犯人が語る 〜防止8カ条〜」は、ひったくり犯の手口や行動スタイルなどを分析して作成されているのが特徴だ。8つあります。参考にしてください。

 1.自転車のかごには防犯ネットをする
 2.ショルダーバッグはたすき掛けで
 3.自転車は(バイクが通りにくい)壁側にバッグを掛ける
 4.自転車の後ろのかごには絶対にバッグを入れない
 5.バイクのアクセルは右手で操作するので、右側を通行する人々へのひったくりは難しい
 6.見られたくないので後ろから近づいた時に振り向いた人にはやらない
 7.110番通報がすぐできるよう携帯電話はバッグに入れない
 8.自転車のハンドルを少しでもひねれば手が届かないので盗まれない
     (神奈川県警大和署が作成)

 バッグを車道側に持たず、バックに気を配り、バイクに注意して、ひったくりにご用心ください。
(以上、平成21年6月22日(月)日本経済新聞朝刊 ひったくり防止 総力戦を参考)

 以前、近隣の警察署が地域住民向けに「空き巣や車上あらしからどう守るか」の説明会がありました。その時には丁度空き巣の件数が減っていた時でした。防犯担当の警察官いわく、「空き巣の件数が減ったのは防犯の取り組みの成果ではありません。もうじき常習者が出所しますから、また増えます。」

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2009年06月21日

霧に浮かぶ島淡路島:高塚山の森を歩こう会(9)

 今年4月12日、高塚山 北入山道の道開きが行われた。その記念としてソメイヨシノが2本記念植樹された。植樹育成に協力するため、水を入れたペットボトル2本をソメイヨシノの根元に置き、代わりに空のペットボトル2本を持ち帰る。

 北入山道入口手前にあった多くの小判草はきれいさっぱり刈り取られてしまっていた。ザクザクあった小判が無残にも露と消えてしまったのは残念だ。

 高塚龍神社に到る山道では何回か蜘蛛の巣に引っかかったが、帰りにも壊された蜘蛛の巣をせっかく張り替えようとしているのにまた引っかかって壊してしまうという始末となった。蜘蛛には気の毒だが何回も引っかかるのは御免被りたい。

 高塚龍神社境内の広場?には新たにベンチが一つ据え付けられた。これはK建設の人が作ったものらしい。昨年8月に突如民事再生手続きの申し立てをしたアーバンコーポレイションが開発中の宅地造成地は、K建設がその後を引き受けることになったらしい。本当はどうなのかは確かめてはいないが。K建設の人は「高塚山の森を歩こう会」には最初は関わっていなかったと思うが、新たに北入山道ができてから参加するようになったようだ。

 開発中の宅地造成地を売り出す時の環境面での謳い文句にはなるだろうか。北には高塚山古墳群、南には五色塚古墳、南西には大歳山遺跡公園と、古代から穏やかな気候で暮らしやすかった土地だと言うのが最高の謳い文句ではあろうが。

 本土側は澄み切っているのに、瀬戸内海は濃い霧に覆われていた。明石海峡大橋が無ければ、淡路島があることに気づかなかっただろう。ぼんやりと霧に浮かぶ淡路島は幻想的ではある。

霧に浮かぶ淡路島.JPG


 そういえば、以前青春18切符で舞子から倉敷のチボリ公園とアイビースクエアに行ったことがあった。舞子から姫路行の早朝の快速電車に乗り、しばらく行ったら霧のため電車が5分位停車したことがあった。停車したのはちょうど朝霧駅付近だった。このあたりは昔から文字通り朝、霧が発生しやすい場所だったのだ。霧に浮かぶ淡路島を見ながら思い出したのだった。

高塚山の森を歩こう会、をご覧ください
高塚山の森を歩こう会(5)、をご覧ください

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2009年06月20日

今年6月3日にオープンした神戸市立海外移住と文化の交流センターとは?

 1908年(明治41年)4月28日、神戸港からブラジル第1回移民船笠戸丸は、781名の移住者を乗せて出帆しました。長期間の航海の後、1908年(明治41年)6月18日にブラジルのサントス港に着きました。 ⇒ 今日6月18日は、海外移住の日、をご覧ください

 神戸を出港した船は南アフリカ経由で南米に向かいました。昭和初期の大阪商船(現商船三井)の南米航路の場合、寄港地は香港には6日目、シンガポールには11日目、コロンボ17日目、ダーバン29日目、ケープタウン32日目、リオデジャネイロ43日目で、サントスには44日目に着きました。航海距離は約12,000海里(約22,000km)もありました。

 パナマ運河が開通したのは、1914年(大正3年)8月15日でした。ちなみにスエズ運河が開通したのは、1869年(明治2年)11月17日でした。

 1928年(昭和3年)3月に開設された「国立移民収容所」は、今年6月3日に新たな多文化共生の拠点として整備された「海外移住と文化の交流センター」としてオープンしました。
 その概要を書いてみたいと思います。

 「希望と未知への船出の広場」(移住ミュージアム)が1階と2階にあります。
 「多文化との共生の広場」(在住外国人支援)が2階と3階にあります。
そして「芸術を生かした創生の広場」(国際芸術交流)が3階と4階にあります。

 1階と2階にある「希望と未知への船出の広場」(移住ミュージアム)は6つのゾーンに分かれています。
 A.神戸から世界へ <1階>
  センター(国立移民収容所)が設立された当時の神戸の街並を映像、床面グラフィック、写真によって展示しています。
 B.神戸と移住の歴史 <1階>
  都道府県別の移住者数をあらわした地図、海外移住の歴史を3期に分けた年表をとおして移住の概要を示しています。
 C.建物の記憶・人々の記憶 <1階>
  1928年設立の国立移民収容所は時代によって名称や使用用途も変わっていきました。その変遷を映像と年表、当時の建物にまつわる資料で紹介しています。
 D.新天地への道のり <2階>
  出航前のセンターでの生活の様子や出航時の風景を紹介しています。
 E.新天地に生きる <2階>
  渡航先での暮らしをブラジルとそれ以外の国々に分けて紹介しています。
 F.神戸へのメッセージ <2階>
  多数の海外移住者を送り出したこの建物は、これからも国際交流や多文化共生の活動拠点としての役割を担います。

 「神戸市立海外移住と文化の交流センター」資料を基に記述させていただきました。

海外移住と文化の交流センター.JPG


今日6月18日は、海外移住の日、をご覧ください

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2009年06月19日

今日6月19日は、丹那トンネルが貫通した日です 〜〜船成金、鉄道大臣になる〜〜

 今日6月19日は、丹那トンネルが貫通した日です。丹那トンネルは東海道本線の熱海駅〜函南駅間にあるトンネルで、総延長7,804m、1934年(昭和9年)に開通しました。完成当時は清水トンネルに次ぐ日本第2位の長さでした。それまで国府津から沼津へと箱根の外輪山を回る御殿場線経由でしたが、直線ルートへと距離・時間ともに大幅に短縮されました。

 1933年(昭和8年)6月19日に貫通式が開催されることとなり、三土忠造鉄道大臣が大臣室で最後の発破合図のボタンを押すと、発破が実行され丹那トンネルが貫通したのです。利用に供されたのは1934年(昭和9年)12月1日からです。

 丹那トンネルの工事は、大量の湧水との戦いであり、トンネル崩壊事故など犠牲者全67名となる難工事となりました。これは、地質が分かっていない所へ遮二無二トンネルを掘ろうとした結果でした。この経験が活かされ、その後のトンネル工事はできるだけの事前調査を実施して、難工事が予想される箇所を避け、地質に合った掘削方法を準備するようになりました。次の長大トンネルとなる関門トンネルは事前調査の結果、地盤の軟弱な九州側の主要工法としてシールド工法が採用され、工事推進の原動力となりました。

 丹那トンネルの熱海側の入口の上に掲げられている「丹那隧道」という文字は、開通時の鉄道大臣内田信也の揮毫によるもので、左に2578、右に2594という数字が掲げられています。2つの数字は、着工と開通の年の皇紀を表しており、2578年(大正7年)着工、2594年(昭和9年)開通ということになります。

 なお、1942年(昭和17年)7月1日に開業した関門トンネルの門司側の入口の上に掲げられている「関門隧道」という文字も内田信也の揮毫によるものです。

 1924年(大正13年)立憲政友会の公認で茨城県より立候補し第15回衆議院議員総選挙に当選して代議士となり、豊富な資金と才覚で政治家としても活躍します。岡田啓介海軍大臣のもとで海軍政務次官となり、犬養毅内閣では三土忠造逓信大臣の逓信政務次官として船舶改善助成施設の成立に活躍します。1934年(昭和9年)7月8日、岡田啓介内閣のもとで鉄道大臣に任じられます。

 内田信也は政界転進前は、山下汽船の山下亀三郎・勝田汽船の勝田銀次郎・内田汽船の内田信也という三大船成金の一人でした。神戸元居留地には内田汽船や内田商事が入居していた内田汽船本社ビルがあり、武庫離宮(現須磨離宮公園)近くに内田邸、通称須磨御殿がありましたが、いずれも阪神・淡路大震災で全壊しました。

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2009年06月18日

今日6月18日は、海外移住の日

 今日6月18日は、海外移住の日です。これは1908年(明治41年)6月18日に、ブラジル第1回移民として781名が笠戸丸でブラジルのサントス港に着いた日を、ブラジルの日系人が「移民の日」として記念したからです。

 ブラジル第1回移民が着いた日が1908年(明治41年)6月18日だということは分かりました。では、出発した日はいつ、どこからだったのでしょうか。

 それは1908年(明治41年)4月28日、神戸港からブラジル第1回移民船笠戸丸が781名の移住者を乗せて出帆したのです。このことを記念したブラジルの地図の中に「ブラジル移民発祥之地」と書かれた石碑があります。その石碑の右手前には次のように書かれています。

ブラジル移民発祥の地石碑.JPG


 ブラジル第1回移民船「笠戸丸」が781名の移住者を乗せ、神戸港を出帆したのが、明治41年4月28日(1908年)であり、その後も引つづき、戦前戦後約25万人の方々が、神戸港からブラジルへ移住されたのを記念して、発祥のこの地に記念碑を建立するものである。
 この記念碑に使用の石材は、遠くブラジル在住の兵庫県人会の有志から贈られたものである。
        昭和54年4月28日   兵庫県 神戸市
                     国際協力事業団
                    財団法人日伯協会

 このブラジル移民発祥の地とは、作家「石川達三」の小説「蒼氓(そうぼう)」に出てくる「黄色い無装飾の大きなビルディングの国立移民収容所」と書かれている建物のことです。

 この建物は今年6月3日にオープンした、新たな多文化共生の拠点として整備された「海外移住と文化の交流センター」のことです。
 
 この建物の名称を少し追ってみたいと思います。
 1928年(昭和3年)3月、「国立移民収容所」が現在の場所(神戸市中央区山本通3丁目)に開設されます。1932年(昭和7年)、神戸移住教養所に改称されます。1941年(昭和16年)に閉鎖されますが、1952年(昭和27年)「神戸移住斡旋所」として再開されます。1964年(昭和39年)に「神戸移住センター」と改名され、1971年(昭和46年)5月に閉鎖されました。閉鎖されるまでの間に、およそ25万人をブラジルを主として南米諸国に海外移住者を送り出しました。「海外移住の歴史の生き証人」とも言える建物です。

海外移住と文化の交流センター.JPG


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2009年06月17日

『通販を極めた勝者が教える40倍稼ぐしくみ』

『通販を極めた勝者が教える40倍稼ぐしくみ』 池本克之著 PHP研究所

 著者の池本克之さんは、2001年(平成13年)1月に株式会社ドクターシーラボの社長に就任し、2003年(平成15年)3月に店頭公開を達成し、2003年11月にドクターシーラボを退任された方です。『通販を極めた勝者が教える40倍稼ぐしくみ』の本は、その時年商3億円だった会社を年商120億円にまで成長させた実績を基に、商売に携わる者にとっての当たり前のこと、お客様の立場に立って商いをすることが書かれています。

 ドクターシーラボは1999年(平成11年)2月設立の会社で、2005年(平成17年)2月に東証第1部[化学]に上場した株式会社です。2004年4月期の売上119億円、営業利益24億円で、最新の決算期の2008年7月期216億円、営業利益38億円の会社です(決算期を変更しています)。池本社長退任後も高成長を続けている会社です。

 この会社のUSP(ユニーク・セリング・プロポジションの頭文字をとったもの:商品やサービスの独自の売りのこと)は、「皮膚の専門家がつくったメディカルコスメ」で、お医者さんが化粧品を作ることが従来の化粧品会社とは一味も二味も異なる強烈な売りとなっています。

 池本さんはドクターシーラボの社長に直接なったのではなく、最初はコンサルタントとして関わっていましたが、オーナーから社長になってくれと言われて社長となった方です。コンサルタントと社長とは立場も考え方も全く違いますし、社員の方も今までコンサルタントとして色々とアドバイスをしていた人が、いきなり今日から社長だ、なんて言われれば大いに面食らってしまうのは当然です。

 「人は石垣、人は城」ではありませんが、やるのは人です。コミニュケーションと教育に力を注ぎます。それは会社の数字を伸ばすには、社員がフルパワーできないといけない、からです。社員の力量を見極めるために採用と解雇を非常に重視します。解雇というのは、今後の会社の進むべき道に対して賛同できるかどうか、という話で、賛同できなければ早晩会社に居場所がなくなるということです。

 売上が40倍になっていく過程で40倍を大きくこなせる仕組みが必要になります。商品数、受注件数、生産体制、配送体制、問い合わせ・クレーム対応、顧客管理システムなど、従来の仕組みでは2倍でも対応できない仕組みをどう効率化して40倍に対応するのか、この仕組みをどう管理するかに社長として非常に力を注ぎます。

 ドクターシーラボが大きく成長した要因として、次の3つを池本さんは挙げています。それは、マスコミとのリレーション、商品開発力、マーケティングの3つです。

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2009年06月16日

綱敷天満宮の波乗り祈願像に参拝して、時勢の波に乗り、夢を叶えましょう!

 寺社巡りは退屈どころか面白いモノに出合える格好の楽しみだ。神戸市須磨区にある新しくできたJR須磨海浜駅とJR須磨駅を走るJR山陽本線の上を跨ぐ国道2号線の跨線道路橋を天神橋という。天神橋は1927年(昭和2年)2月28日竣工の構造的には珍しい橋の一つである。この天神橋のたもとにあるのが綱敷天満宮だ。この綱敷天満宮には色々とユニークなものがある。

 綱敷天満宮の由緒を見てみよう。折り返しは無視して由緒を掲げる。

綱敷天満宮由緒.JPG


綱敷天満宮由緒
延喜元年二月菅原道真公九州へ御左遷の御途次海上風波高く航しかねて此地に上陸し給い里の浦人等は網の綱を丸めて円座とし座を設けました
道真公はここに安居し給い暫らく旅の疲れを休められ須磨の風光を賞でられた 菅公薨ぜられて後七十六年目の天元二年時の須磨人等がその御像を模し祠をたててお祀り申上げたのが当社の創始である
当天満宮は日本二十五社の内第十四番の霊社にして特に学問の神として崇敬厚く神威嚇々として庶民の信仰を集め霊験又顕著であります

 拝殿の右手に新たに建立されたのが、波乗り祈願像である。この波乗り祈願像は、「時勢の波に乗り、夢が叶うことを祈願」するために建立された。この波乗り祈願像の説明書きを見てみよう。

波乗り祈願.JPG

波乗り祈願像説明書き.JPG


 綱敷天満宮と波乗り祈願像
「波乗り祈願」とは、成功を収めるために、うまく時流の波に乗ることを祈願するものです。
決して自分本位な行動をとるのではなく、時を読み、流れに逆らわず、自らの平衡感覚によって状況に適応していくことが、人間が生きていく上で大切だと思います。
綱敷天満宮の近くには、古くから風光明媚な景勝地として親しまれている須磨の浦があります。今も、夏になれば、須磨海岸には、多くの若者や家族が訪れ、賑わいます。
この像は、時代の荒波に乗り、一人でも多くの方々が幸せになることを願い、須磨の海でサーフボードを抱える幼少時代の菅原道真公をモチーフに制作、建立しました。

是非須磨海岸にお立ち寄りの節は、「時勢の波に乗り、夢が叶うことを祈願」するために、綱敷天満宮の波乗り祈願像をご参拝くださいませ。

相場の技法の一つに「うねり取り」がある。文字通り、相場の上下の波(うねり)に乗ることで、あなたの夢を叶える技法だ。問題は、あなたが「うねり」を見分けられるかどうかだ。

株式投資で資産を増やそうと思ったのに、“塩漬け”状態になっていませんか?、をご覧ください
FX教材はたくさんありますが、ほとんどの投資家が儲からないのはなぜでしょう、をご覧ください

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2009年06月15日

60年安保時の首相岸信介の昭和12年満州

 今日6月15日は、60年安保で連日大規模なデモが続く中、国会構内で警官隊との衝突により、デモに参加していた東京大学学生樺美智子の死亡事件が発生した日である。時の首相は岸信介である。60年とは1960年(昭和35年)のことで、来年で半世紀を迎えることになる。

 1951年(昭和26年)に締結された日米安全保障条約(安保条約)は、1960年5月20日、日米安全保障条約(安保条約)の新条約案が衆議院で強行採決されると、参議院の議決がないまま、6月19日に自然成立する。アイゼンハワー大統領の訪日は中止され、新安保条約の批准書交換の日の6月23日、混乱の責任をとる形で岸内閣は総辞職した。

 第56・57代内閣総理大臣岸信介の在任期間は、1957年(昭和32年)2月25日−1960年(昭和35年)7月19日。岸信介の旧姓は佐藤で、第61・62・63代内閣総理大臣で1974年(昭和49年)ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作は実弟である。

 岸信介が内閣総理大臣になる前の若き日に、満州で仕事をしていたことを知ったのは、ある資料館にあった商標登録の書類だった。満州にいたのはいつだったかを知りたくてある資料館を訪れた。

 ある資料館とは甲南漬資料館で、神戸市東灘区御影塚町にある。この甲南漬資料館には、高嶋酒類食品株式会社の120年にわたる歴史やみりん作りに関する道具や奈良漬の歴史や奈良漬の主原料の酒粕の資料等が展示されている。

 この高嶋酒類食品であるが、祖父が2代目社長と昵懇の間柄だったことで、定年退職後にアルバイトの声がかかり、お歳暮とお中元の季節に得意の毛筆で甲南漬のお届け先の住所を長年書いてきた会社だった。祖父から毎年夏と冬に甲南漬が届きよく食べた。

 お目当ての資料とは、次の写真である。

岸信介:甲南登録商標.JPG


 この商標註冊證には、商標図様として「甲南」が登録されていることが證されている。登録日付は康徳四年五月十四日で、特許発明局長 岸信介の署名がある。康徳とは満州国の元号で、1934年(昭和9年)3月1日から、満州国が崩壊した1945年(昭和20年)8月18日まで使用された。康徳四年とは、1937年(昭和12年)のことである。

 商標註冊證の名称株式会社高島平介商店の住所であるが、兵庫県武庫郡御影町東明とある。御影町は戦後1950年(昭和25年)住吉村と魚崎村ともに神戸市と合併して神戸市東灘区となった。
 1995年(平成7年)阪神・淡路大震災によって本店が倒壊し、本店内にあった資料館の多くの資料を失ったが、1997年(平成9年)元本店周辺を“こうべ甲南武庫の郷”と命名し、旧社長宅を美味伝承甲南漬資料館として再開した。

 1904年(明治37年)に開通した阪神電車は、路面電車で、御影、石屋川に次いで東明、大石という停留所があった。1923年(大正12年)に東明停留所に本店を移し、阪神電車は「東明停留所高嶋味淋店前」といって止まったらしい。1929年(昭和4年)に阪神電車の高架や土手が完成し、専用線になったのをきっかけに高嶋平介所有地の真中を通ることとなり、高嶋の土地は分断され、東明停留所は西へ移り新在家駅となる。

<<参考資料>>『百二十年のあゆみ』高嶋酒類食品株式会社

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2009年06月14日

GE(ゼネラル・エレクトリック)創設者 トーマス・エジソン

 ダウ・ジョーンズ社が算出しているアメリカの代表的な株価指数のダウ工業株30種平均は、1896年5月26日から算出開始されており、算出開始時からの構成銘柄で今も残っているのは、総合電機・金融会社のGE(ゼネラル・エレクトリック)のみである。

 このGE創設者は、大発明家として有名なあのトーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison)だ。エジソンは1847年2月11日、アメリカのオハイオ州ミランで生まれた。エジソン31歳
の時、1878年10月15日にエジソン電灯会社(Edison Electric Light Company)を設立。その後もいくつもの会社を設立。エジソンは1890年までに、それまで手がけていた様々な事業をひとつにまとめ、エジソン・ゼネラル・エレクトリック・カンパニー(Edison General Electric Company)を設立した。

 一方、トムソン・ヒューストン・カンパニー(Thomson-Houston Company)は、マサチューセッツ州リンの靴製造業者だったチャールズ・A・コフィンの下で一連の合併を通じて、代表的な電気イノベーション会社に成長した。

 両社とも、規模が拡大するにつれ自社の特許と技術のみで一連の電気設備を生産することがますます難しくなり、1892年に両社が統合し、新会社「ゼネラル・エレクトリック・カンパニー(General Electric Company)」が誕生したものだ。

 エジソンは数多くの発明をするが、その中の一つに“動く写真”『ヴァィタスコープ』の発明がある。『日活四十年史』(p.34)の第一節として「日本映画の夜明け」が記述されており。映画の発明の歴史が詳述されているので引用させていただく。

 一八九五年、アメリカのトマス・エヂソンは“動く写真”の発明を完成、これに『ヴァィタスコープ』と名づけた。
 同じ年欧洲ではフランスのルイとオーギュストのリュミエール兄弟が『シネマトグラフ』を発表し『リオン・モンブレジールにおけるリュミエール工場の出口』と称する一巻ものを映写することに成功した。また同年ドイツではマックス・スタラダノウスキーが『ビオスコープ』を、イギリスでは翌一八九六年ロバート・W・ポールが『シアトログラフ』を発表した。
(中略)
 この“動く写真”−−映画が、わが国に初めて渡来したのは、発明の翌々年の明治三十年(一八九七年)であつた。しかもこの三十年の二月から三月へかけてフランスのシネマトグラフと、アメリカのヴァィタスコープの二通りの活動写真機が、都合四ヵ所に輸入されたのである。
(中略)
 もつとも、この活動写真の前に、覗いて一人ずつで見るキネトスコープというのが明治二十九年十二月神戸に輸入されたのだが、一人ずつでしか見られないキネトスコープは何かにつけ不便でもあり、興行用にも不適当な玩具のようなものであるから、大した発展はしなかつた。(引用終わり)

 エジソンと日本とは深い関係がある。それはエジソンが発明した白熱電球だ。白熱電球は、長い研究の末、フィラメント素材に京都の竹を用いたことで完成された。京都府八幡市にある男山の竹は、セルロースのフィラメントにとってかわる1894年までの約10年間、「八幡竹(はちまんだけ)」の名で、エジソン電灯会社に輸出された。「八幡竹」を使用して何百万個の馬蹄型フィラメントの白熱電球が作られ、全世界に明かりを灯し続けたのだ。

 男山にある石清水八幡宮神内には、トーマス・アルバ・エジソンの白熱電球発明から50周年を記念したエジソン記念碑がある。また、京阪電車八幡市駅前にはエジソンの胸像がある。

エジソン記念碑.jpg

エジソン胸像.jpg


ダウ工業株30種平均の構成銘柄から消えたGMとシティグループ、をご覧ください
日活のDNAをさぐる、をご覧ください

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2009年06月13日

米国のテレビ放送はデジタル放送に完全に移行したのか?

 2011年7月24日にテレビの地上アナログ放送を終了させ、地上デジタル放送に円滑に移行するための地上デジタル放送推進のメインキャラクターを務めていた草なぎ剛さんが、公然わいせつ容疑の現行犯で逮捕された事件で、地デジ鹿が地デジのPRキャラクターに決まった、ことは記憶に新しいことだ。

 米国では1998年に地上デジタル放送を開始し、日本より2年以上も早い2009年2月17日に完全移行する予定だったが、4ヶ月後の6月12日に延期された。延期された理由は、アナログ用テレビでデジタル放送を視聴できるコンバーターを持たない世帯が残っていたため、デジタル放送未対応の世帯に米国政府が配慮したからだ。

 2009年6月12日、地上デジタル放送の完全移行期限を迎えたが、どうだったのだろうか。約300万弱世帯は対応が間に合わず、対応を終えた世帯でも思うように受信できないなど混乱も起きているらしい。移行に伴う混乱については、事後対応とする方針だったのだが、対応を終えた世帯での混乱はどの程度想定内だったのだろうか。

 日本は米国での事後対応を他山の石とできるのだろうか。

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2009年06月12日

日本茶輸出貿易の先駆者 長崎の大浦慶

 この『盟約ニテ成セル梅屋庄吉と孫文』という本に出合ったのは、書棚にあった時他の本とサイズが違っており、B5サイズで背が高かったことと背表紙に「孫文」という文字があったからだった。
この本で初めて梅屋庄吉という人と、彼が日活の創立と深く関わった人物であることを知ったのだった。この本を読んでいるうちに、思わぬところに以前から気になっていたあることの解決の手掛かりを得たのは非常に嬉しいことだった。

 その箇所をそのまま引用させていただく(p.23)。

 「日本茶輸出貿易の先駆者・大浦慶
 長崎の油問屋の娘として生まれた大浦慶(1828ー1884年)は、婚約者を亡くすと、自ら当主となって、茶の輸出を手がけた。1853(嘉永6)年に嬉野茶を取り寄せ、出島のオランダ人に見本として英米などに送ることを依頼した。当時、緑茶は西洋人に好まれ、国際市場で重要な商品だった。慶は茶を等級ごとに袋に分けるなどの工夫を凝らして積極的な売り込みを図った。日米和親条約で日本が開国する1年前だ。
 その効果はすぐに表れ、1856(安政3)年に英国商人・オールトが長崎港へ来航し、慶に巨額の注文をした。注文量は嬉野産だけでは賄いきれず、九州一円の茶産地から集められ、アメリカに輸出された。以後、慶は莫大な利益を手にする。
 国際商品としての茶への着目、外国商人との交渉術など、茶貿易の成功は、慶の優れた国際感覚と、海外に開かれた長崎の土地柄に負うところが大きかった。
(長崎県立長崎図書館所蔵)」 → 大浦慶の写真の所蔵のことです。

 慶応3年12月7日(1868年1月1日)に兵庫開港するが、実際には兵庫ではなく神戸開港であった。この神戸港からの主要輸出商品としてお茶があったが、なぜ紅茶ではなく緑茶がイギリスに輸出されたのかが全く分からなかった。なぜ、イギリス人は緑茶を飲むのか、どういうようにして飲むのか、が分からなかった。このことを10年以上も考えていた。

 この記事によれば、大浦慶さんという方は、江戸幕府が瓦解寸前にある時、お茶を売り込み、長崎から海外へ輸出する道筋をしっかりとつけた、ことが分かる。こういう努力があったからこそ、神戸居留地が競売された時、イギリス商人がこぞって落札し、国別ではイギリスが一番多くの区画を落札したことにつながるのだろう。

 神戸居留地を落札して、そこに事務所兼居宅を構えれば、そこは日本の法律が及ばない治外法権の地であり、商館貿易で利益を思うようにあげられる地であるから、新たなる利権を求めてイギリス商人は押し寄せたということになる。神戸を茶の集荷場とすれば、長崎だけでなく神戸からも輸出できるから好都合というわけだ。

 その中には、長崎に有名なグラバー邸があるグラバー商会は神戸居留地を2区画落札した。

 昨年神戸港開港140周年であったが、今年開港150周年を迎える横浜港が神戸港より先に開港していた。近畿のお茶は、神戸開港前は横浜港から太平洋を越えてアメリカへ輸出されており、長崎だけでなく横浜からもイギリス商人やアメリカ商人が新たなる利権を求めて神戸居留地を落札した。

日活のDNAをさぐる、をご覧ください
孫文と宋慶齢の仲を取り持ち、2人の結婚の世話をした日本人女性、をご覧ください




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2009年06月11日

孫文と宋慶齢の仲を取り持ち、2人の結婚の世話をした日本人女性

『盟約ニテ成セル梅屋庄吉と孫文』読売新聞西部本社編 海鳥社

盟約ニテ成セル梅屋庄吉と孫文



 梅屋庄吉の活動は、エム・パテー商会を創業し、4社を合併した日本活動写真株式会社(日活の前身)の創立だけではなく、実は孫文支援の事業に多くの資産(資源)を惜しみなく提供してきた。『盟約ニテ成セル梅屋庄吉と孫文』は、梅屋庄吉の孫文支援活動を豊富な史料を駆使して記述されている。個人的興味や関心から気になる史料を少し取り上げてみることにする。

p.23 日本茶輸出貿易の先駆者・大浦慶
    この内容については改めてご紹介したい
p.23 日本の写真の祖・上野彦馬
    日本の写真の祖・上野彦馬(1838−1904年)は、独自の手法で写真術を開花させ、1862年(文久2年)に長崎に上野撮影局を開設。西南戦争(1877年)にも従軍して名声を得る。

p.26 日本郵船株式会社 上海航路案内のパンフレット
p.26 日本郵船株式会社 中国向けカレンダー

p.38 マニラ時代の梅屋庄吉
    梅屋庄吉は香港時代、フィリピン革命派の指導者でスペインからの独立運動を進めていたエミリオ・アギナルド(1869−1964年)との親交を深める。1896年6月に臨時政府を樹立、独立を宣言するも、米国がスペインからフィリピン群島を2000万ドルで買い取ったため、米国に対する独立戦争を開始する。

p.40 覚王山日泰寺
    名古屋市千種区法王町にあるこの寺は、「日本で唯一、タイ国から贈られた釈迦の遺骨を安置する寺」。遺骨は1918年(大正7年)に完成した奉安塔に安置される。

p.53 頭山満
    頭山満(1855−1944年)は、孫文、朝鮮の金玉均、インドのラス・ビハリ・ボースらアジアの政治亡命者を保護・支援する。

p.72 革命軍の「軍票」
    梅屋庄吉が革命軍の依頼を受けて東京で印刷する。

p.76 1924(大正13)年、神戸高等女学校で有名な「大アジア主義」の演説を行った孫文は、1925年3月、「革命未だ成らず」の言葉を残し、北京で肝臓がんのために死去した。

p.79 梅屋夫妻と孫文
    庄吉の妻トクは、孫文と秘書の宋慶齢の仲を取り持ち、2人の結婚の世話をした。

p.83 宋慶齢愛用のピアノ
    宋慶齢(1893−1981年)は中国の実業家・宋嘉樹の次女として生まれる。1915年孫文と結婚。長女の宋靄齢は財閥・孔祥煕、三女の宋美齢は蒋介石と結婚。宋三姉妹である。
    日比谷公園内にあるレストラン「日比谷松本楼」1階ロビーにある。1907(明治40)年製造。現存する国産ピアノの中で最も古い2台のうちの1つ。

p.105 梅屋庄吉の書「富貴在心」と「積善家」
    「富貴在心」は庄吉が好んだ言葉で、「富や尊さは財産や名声ではなく、その人の心の中にあるもの」という意味。「積善家」は「善行を積み重ねた家には子孫まで幸福が訪れる」という意味。 

日活のDNAをさぐる、をご覧ください


盟約ニテ成セル梅屋庄吉と孫文

盟約ニテ成セル梅屋庄吉と孫文

  • 作者: 読売新聞西部本社
  • 出版社/メーカー: 海鳥社
  • 発売日: 2002/10
  • メディア: 単行本


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